金本は阪神という老舗のユニホームを着る決意をしたとき、打撃チーフコーチ田淵幸一は「4番でいく」とした。が、金本は首を横に振った。それは星野が口には出さないが、4番に若い浜中治(当時24歳)を育てようとしていることを察したからだ。それは甲子園の広さとケンカをするより、浜中という若武者を助けて、コンビを組んで名門復活に挑むことこそ、自分の立ち位置だと考えたからである。
一見、消極的と誤解されるかもしれない。だが、騒がれてFAで阪神に飛び込み、焦って自分の在り方を見失いたくはなかった。「甲子園は広い。浜中という打者が育つまでは自分がその露払いをやろう」と決めた。それには同じ外野のフィールド、そして浜中の前で縦横無尽に走り、動き、守ろうと決意したのだ。
つまりこれは1985年、バースが掛布雅之(現2軍監督)を監督吉田義男が4番にしたときに「カケフの前に徹する」と心がけた構図とよく似ている。その結果、掛布の成績が上がり、相手投手はバースと勝負せざるをえなくなった。それが三冠王の数字となったことに酷似していた。