【No Ball、No Life】目を閉じると思い起こされるあの優しい声。「パエリア食べんかったんか?」
1968年メキシコ五輪の男子サッカーで得点王となりチームの銅メダル獲得に貢献し、代表通算で史上最多75得点を記録するなど不世出のストライカーとして活躍した釜本邦茂(かまもと・くにしげ)氏が10日午前4時4分、大阪府内の病院で死去した。81歳だった。
現役時代を知らない記者にとってのテレビでみたメキシコ五輪3位決定戦での2得点の映像が、釜本さんの印象だった。無駄のないきれいなシュートモーションからゴールを奪うストライカーの姿が幼いころに脳裏に焼きついた。日本サッカー史の偉人、私にとって別世界の人だった。
サッカー専門誌の編集者をしていた2007年春、サンケイスポーツの大先輩でフリーランスとして活躍されていた賀川浩(かがわ・ひろし)さんの連載「ストライカーの記憶 ~我が心のゴールハンター~」を担当した。当時でも珍しくFAXで送られてくる達筆な原稿を文字にしていく作業。ベテラン先輩編集者の国吉好弘さんからサポートを受けながら連載は始まった。
週刊誌だったので一月に一選手のペースでゲルト・ミュラー(西ドイツ)、エウゼビオ(ポルトガル)などを紹介すると同年の秋頃に釜本さんの出番がやってきた。事前に「この後、ロマーリオ(ブラジル)、クリンスマン(ドイツ)と登場しますが、その後はどうしましょうか」と相談すると賀川さんは「そろそろ釜本君かな」と提案。これを国吉さんに伝えすると「長くなるぞ」と苦笑いされた。
それもそのはず。賀川さんが初めて釜本さんを見たのは京都・山城高1年のときでその取材量は膨大なもの。書きたくてしようがない話がたくさんあったようだ。私はこの連載を通じて釜本さんのすごさを実感。ヨハン・クライフ(オランダ)も認めた、60年、70年代において世界に通じるストライカーが釜本さんだったとあらためて知った。
基本的に釜本さんとのやり取りは同氏担当の国吉さんが行った。連載の問い合わせは賀川さんにしたが、事実確認が必要な場合は私が直接、釜本さんに電話を入れた。最初の話の内容は覚えていない。ただ「怖そう」というイメージとは裏腹に明るく優しそうな声が電話先から聞こえてきたのを覚えている。
賀川さんが筆を振るって書き上げていく連載は25回ほど続いた。1カ月一人を紹介するペースを考えると「釜本回」への熱の入れようがすごかったことがわかる。私は「釜本回」の終了を待たずして08年の冬に編集者を辞め退社したが、釜本さんの情報はこの連載のおかげでかなりインプットできた。
08年11月、退社の報告とあいさつのため賀川さんに会いに大阪へ。「その日は釜本君と会うけど、一色さんもきますか?」と声をかけていただいた。ここで〝初めて〟釜本さんとお会いすることに。同年6月の横浜でのチャリティーマッチで釜本さんには取材していたが、このときは簡単なあいさつのみ。本当の対面は大阪でかなった。
記憶は定かではないが、場所は大阪市内どこかの応接室。賀川さんが「連載の担当だった一色さん。スペインに行くらしいよ」と紹介してくださると、釜本さんは「旅行でいくの? この時期は寒いんじゃないかな―」とマイペースに話始めた。賀川さんから「違う、違う。向こうに住んでサッカーを取材するらしいんよ」と説明されると「そっか。向こうで日本、欧州の違いをみて僕に教えてよ」と肩をたたいてくれた。その後は日本サッカーがどうすれば成長を遂げることができるのか、時間の許す限り談義。私が口を出すのもおこがましかったが、釜本さんはときおり「一色君はどう思う?」と2人の世界に私を誘ってくれた。
14年に本帰国した際には「痩せたな。パエリア食べんかったんか?」と声をかけていただいた。15年3月にサンケイスポーツのサッカー担当になったことを伝えると「なんや。賀川さんの後輩になったのか。『大先輩に追いつけ』だな」と恐れ多いエールをくださった。
私が何度かサッカー担当を離れたこともあり、サンスポでは多くを取材できず。23年3月のキリンチャレンジ杯でコロンビア戦(●1―2)で話を聞いたのが最後となった。このときも日本の決定力不足を憂いながらも「もっと上田綺世(現フェイエノールト)を見たかった」と日本代表の後輩FWに期待を寄せていた。
常に日本サッカーの発展を願い、選手、関係者、報道陣に気遣いをくださった〝ガマさん〟。天国でも賀川さんとともにサッカー談議に花を咲かせてください。ご冥福をお祈り申し上げます。(一色伸裕)