2021年5月、日米通算2500安打を放ち、記念のボードを手に笑顔のヤクルト・青木宣親=神宮 ★2008ー11年、18ー20年担当・長崎右記者
青木選手とは1981年度生まれの同学年。2008年に初めて担当したプロ野球球団がヤクルトだった。青木選手は年上に見られることが多かった記者に「いつ見ても同い年に思えないんだよな」と言いながら、何度も取材を受けてもらった。宮崎・日向市の実家で一緒にラーメンをすすり、沖縄自主トレで浜辺を走る際、重し代わりに背負われたのも思い出だ。
引退会見で繰り返した「諦めない」の言葉。打撃技術を支えた圧倒的な練習量の原点は、日向高3年夏の宮崎大会準々決勝にある。当時は投手で、四球を連発する独り相撲で最後の夏が終わった。悔し涙を流す一方、3年間の練習不足を振り返り「このままじゃ駄目だ。自分自身を変えたい」と心に決めたという。
早大を経て、ヤクルトにはドラフト4巡目での入団。2011年オフにポスティングシステムで米大リーグに挑戦した際は入札額250万ドル(約1億9000万円=為替レートは当時)とテスト入団のような形だったが、諦めない心ではい上がった。
「野球が職業病みたいなところがある。気づいたら野球のことを考えているから。うまくなりたいなら、野球に特化して時間を費やさないといけない。そういう不安はある」と不安とも戦い続けた21年。今度は指導者として、第2の青木宣親を育ててもらいたい。(2008-11年、18-20年ヤクルト担当、現野球デスク)