鉄人2世と呼ばれる機会が多くあった。父(重信、ハンマー投げ前日本記録保持者で1972年ミュンヘン大会など五輪に3度出場)と比較されてね。でも、父の子供として生まれたことを嫌だと思った経験はない。むしろ、アドバンテージをもらえたと感謝していたよ。
父に掛けられた忘れられない言葉がある。スポーツの名門である千葉・成田高に入学して間もないころに県大会で優勝した。でも、続く6月の南関東大会では記録が伸びず、8月のインターハイの出場権を得られなかった。2カ月超、試合から遠ざかることになって肩を落としていたとき、父が声を掛けてきたんだ。
「負けてよかったな」
息子がこんなに落ち込んでいるのに何を言っているんだ、と思ったね。「課題が見つかったじゃないか。秋までみっちり、2回転(の投法)から(高度の技術が必要で記録が伸びる)4回転の練習ができる」と父は続けた。
千葉・成田高進学を機に、親元を離れて競技を始めた。練習が終わるたびに高校から父に電話をかけて、よくアドバイスをもらったものだ。父は月に1回程度、練習を見に来て、ハンマー投げの技術に間違いがあってはいけないと指導してくれた。
夏休みに入れば帰郷し、父が監督を務めた中京大でトレーニングに励んだ。1年生の夏は、高校生レベルでは習得の難しい4回転の投法を繰り返し練習した。父はよくビデオを回して、映像で示しながらアドバイスをくれた。繰り返し見ることで感覚と実際の動きの違いに気付く。研究心を持ちなさいという、父なりのメッセージだったように思う。
こうしたやりとりは現役の晩年まで続いて、海外を拠点にしていてもパソコンで映像を送っては父にチェックしてもらっていた。競技をはじめたころは、よく一流選手の映像と比較するように教えられたし、反対にうまくない選手の投げ方は見るなといわれたよ。高校時代の同級生の応援では一人、競技場に背を向けて仲間の投擲(とうてき)を見るのを控えたこともあった。
成果はすぐに表れた。高校1年の秋、6月の南関東大会で約46メートルだった記録が11メートルも伸びて57メートル82になった。「なるほど、そういうことか」と、あのときの父の言葉に納得できたね。父は、息子がインターハイに出られないなんて、そんなちっぽけな話はどうでもいいと思っていたんだろう。付け焼き刃のトレーニングで全国規模の大会に出場できても、先はない。今思えば、その考えはよく理解できる。
そんな父が樹立した75メートル96の日本記録を、1998年に23歳で塗り替えることになる。ある出来事をきっかけにハンマー投げに向き合う姿勢を見つめ直した経験が、記録の更新へと結びついたんだ。 (あすに続く)