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【虎に劇薬を注入した男(4)】己を捨てる覚悟で戦った3番・金本

星野監督(左)が広島から“強奪”した金本(右)は3番に徹して2003年の優勝に貢献した
浜中(右)は右肩を脱臼して離脱。桧山や八木が代わって4番を務めた
金本(中)はリーグ制覇を決めて、両手を突き上げて喜ぶ。熱心な練習ぶりでもチームを変えた
金本は3番として若き4番・浜中をバックアップしつつも走者を進める打撃に徹した
山内一弘はトレードで加入して1964年の優勝に貢献した

 『虎に劇薬を注入した男』の第4弾は外野手編。2002年オフ、監督星野仙一が広島から略奪した金本知憲外野手(現監督)に求めたモノと今年、糸井嘉男を必要としたコトはやや異なる。阪神はまだどこかぬるま湯だった。そんなモロさが星野政権1年目の失速に繋がっていた。身長1メートル80。糸井より7センチ小柄な男を、人は「鉄人」と呼んだ。彼は自己管理の壮絶さを端境期の虎にたたき込んだ。


 金本は阪神という老舗のユニホームを着る決意をしたとき、打撃チーフコーチ田淵幸一は「4番でいく」とした。が、金本は首を横に振った。それは星野が口には出さないが、4番に若い浜中治(当時24歳)を育てようとしていることを察したからだ。それは甲子園の広さとケンカをするより、浜中という若武者を助けて、コンビを組んで名門復活に挑むことこそ、自分の立ち位置だと考えたからである。

 一見、消極的と誤解されるかもしれない。だが、騒がれてFAで阪神に飛び込み、焦って自分の在り方を見失いたくはなかった。「甲子園は広い。浜中という打者が育つまでは自分がその露払いをやろう」と決めた。それには同じ外野のフィールド、そして浜中の前で縦横無尽に走り、動き、守ろうと決意したのだ。

 つまりこれは1985年、バースが掛布雅之(現2軍監督)を監督吉田義男が4番にしたときに「カケフの前に徹する」と心がけた構図とよく似ている。その結果、掛布の成績が上がり、相手投手はバースと勝負せざるをえなくなった。それが三冠王の数字となったことに酷似していた。


 そのために、彼は開幕から走者を進める3番に徹した。一走の赤星憲広の盗塁を助けるためにわざと早いカウントの好球を見逃した。進塁打をいとわず、凡打しても併殺を防ぐためにガムシャラに全力疾走した。キザな言い方をすると、金本は「自分を捨ててかかった」のだ。

 それが4番浜中の背中を押した。ナインにはそんな金本知憲の心意気が痛いほどわかった。

 浜中が負傷しても、代役に桧山進次郎がいた。八木裕も4番を務めた。それでも、あくまでも金本は3番に徹した。快進撃が続いた。6月29日にはプロ野球史上最速の50勝。浪速の狂喜乱舞はヒートアップした。それを生んだのは金本の「フォア・ザ・チーム」のプレーだった。

 もう道頓堀ダイブを心配した大阪府の太田房江知事が「川の浄化」を口にしたら、大阪市の磯村隆文市長は「知事の気持ちはわかるが、飛び込むのはアカン」とクギをさした。まだマジックも出ていないし、6月だというのに…。それもこれも炎のハッスルプレーを黙々と続ける金本という劇薬物が引きずり出したのだった。


 チームが3連敗したときも、3日間とも金本は黙って試合後に素振りを繰り返している。ヘッドコーチ島野育夫は「こっちから言う前に続々と選手が早出特打をやり始めた」という。どうなっているんだ? と島野はうれしさをかみ殺して聞いた。すると選手らは口々に「やらないと気持ちが悪いんですョ。エヘヘ」と同じ返事。それは金本の口グセだった。

 「骨から汗が出るほどの暑さが好きなんですよ、俺は」

 金本が言った。毎年、チームが失速する試練の夏を乗り越えた。こういう大人の劇薬野郎に支えられて、星野阪神はゴールした。 (敬称略)

【編集委員・上田雅昭の視点】

 糸井の野球の実力は飛び抜けている。「30年近くいろいろな強打者のフリー打撃を見てきたが、間違いなくトップ3に入る。スイングスピード、迫力、その飛距離も」と語る。オリックスのキャンプは阪神と違って、間近で打撃をみることができる。まず、音が違う。阪神移籍が決まったとき、監督福良は「阪神の打撃練習しか見てないトラ番は衝撃ちゃうか。ビックリするやろう」といった。

 日本ハムの大谷翔平が9月に164キロの当時最速球をマークしたが、糸井はヒットにして「手がしびれた」と苦笑い。それが阪神にもたらす効果は大きい。


★63年オフ、ビッグトレードで4番・山内獲得…優勝

 劇薬外野手の代表例は山内一弘だ。三波春夫の『東京音頭』で浮きたっていた1963年12月26日に阪神・小山正明-大毎・山内一弘のビッグトレード。山内はいささか下り坂の主砲だったから大洋監督三原脩は「アホとちがいますか。20勝投手の価値が全然わかってませんナ」と苦言。ところが阪神監督藤本定義も負けていない。「アホはどっちや。それぐらいのことがわからん俺やない」。

 新幹線すら走っていない時の電撃トレードには永田雅一、野田誠三の両オーナーも同席しての発表。64年、山内は4番で31本塁打、94打点でチームは優勝。小山は大毎で30勝したが、チーム本塁打は12球団最低でリーグ4位となった。山内は劇薬というより「打撃の職人肌」の苦労人で、優等生だった。

 勝負度胸の強いタイプは75年の池辺巌、79年の竹之内雅史、86年柏原純一、88年金森永時が印象に残る。

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