日航機墜落事故で亡くなった中埜肇球団社長の告別式に参列する阪神ナイン(1985年8月20日撮影) 40年目の「8月12日」を迎えた。毎年、夏が来ると思い出していた「あの日」。40回目かぁ。たぶん、41回目も、50回目も、その先も、生きている限り忘れることはないだろう。7月には久しぶりに御巣鷹山の慰霊碑に出向いて、手を合わせた。「あの日」と同じような暑い日だった。
1985年8月12日夕刻。羽田空港を飛び立った伊丹空港行の日本航空123便の姿が突如、レーダーから消えた。その瞬間から、テレビの臨時ニュースは始まる。一報の瞬間は、ことの重大さは分かっていない。やがて、機体は群馬、長野、埼玉の県境付近の御巣鷹の峰に墜落したことが判明し、結果的に520人の搭乗者が死亡した。単独航空機としては世界最悪の事故となってしまう。
そんな事態もまだ分かっていない、あの夜遅くのニュース。ようやく搭乗者の名前が順番に報じられていった。今の時代ならどういう形態になるのだろうか。あの夜は、カタカナのフルネームが、次々と画面に映し出された。アナウンサーが淡々と読みあげていった。何気なく眺めていたら、ふと目に飛び込んできたのが、友人と同姓同名の7文字だった。カタカナだから、すぐには友人とは断定できない。別人だろう…。でも、まさか…。悪い予感は的中する。あのとき以上のショックは、40年が経過した今も味わったことがない。
搭乗者の中に国民的歌手の坂本九さんや、阪神タイガースの中埜肇球団社長がおられた。夏のロード真っ最中の阪神球団はてんやわんや。芸能界も大ショック。スポーツ新聞的にも大変だったと先輩記者から聞かされたものだ。事故翌日は、生存者がいて、奇跡の救出劇がテレビで生中継されたり。世間は日航機事故で一色に。
ただ、当時大学4年生の筆者は、そんな騒ぎも遠い感覚。ただただ、友人を失ったショックにボンヤリしてしまっていた。通夜が終わると、京都五山の大文字の送り火が灯っていた。だから、8月16日、「送り火」の日だったんだなぁという記憶だけはあるのだが。新聞記者になり、飛行機に乗るのは嫌だった。40年間、ずっと嫌だった気がする。
もう40年。最近、この「40」という数字をよく目にする。「阪神の生え抜き選手として40年ぶりにホームラン30本の大台に乗せた打者」が現れたからだ。令和のスーパーヒーロー佐藤輝明のおかげで、40年前がどんな時代だったかも、思い起こすことができる。40年前に生え抜きで30号をクリアしたのが掛布雅之&岡田彰布。以来、誰も超えていなかったというのは寂しい話だ。この年はランディ・バースも、真弓明信も30発をクリアして、同一チームから4人も30発超え打者が生まれている。
そんなチームが優勝しないわけがない。阪神が日本一になった年でもある。いい話題もいっぱいあった40年前だ。次の日本一が2年前の2023年。38年ぶり。これまたかなり寂しい話ではあるが。
この先、佐藤輝がどんな活躍で40年前を思い出させてくれるんだろうか? 阪神ではバース以来の三冠王誕生というニュースもいいなぁ(バースは翌86年も三冠王だから、厳密には39年ぶりの誕生になるけれど)。40年前の〝いい話題〟だけなら、いくらでも思い出させてほしい。ガンバレ、サトテル!
■上田 雅昭(うえだ・まさあき) 1962(昭和37)年8月24日生まれ、京都市生まれ。86年入社。近鉄、オリックス、阪神を担当。30年近くプロ野球を見てきたが、担当球団が一度も優勝していないのが自慢(?)