「おい、ちょっと…」と解説者だった西本幸雄(元近鉄監督)がナゴヤ球場のバックネット裏の記者席で声をかけてきた。
「星野はいつもあんなんか?」。『闘将』の元祖と呼ばれた西本が、思わず小さく首を振って言葉を続けた。
「すごいなぁ…」
星野仙一が中日監督1年目、40歳になったばかりの夏。ベンチでイスは蹴っ飛ばす、怒鳴る、なまっちょろいプレーをしたらビンタも飛ぶ。元祖鉄拳監督が驚いたのも無理はない。そのことを翌日、星野に伝えた。
「ニシさんに言っといてくれ。俺は笑った時のほうが怒ってるんですってな…」
さて阪神は1936年、初代監督森茂雄を就任1年目の途中でいびり出し、2代目石本秀一を当てた。ここから「人気選手より監督の地位が軽い」というかんばしくない伝統が生まれた。
それでオーナー久万俊二郎は98年オフ、野村克也(ヤクルト監督)を選択する。阪神ファンにとっては衝撃的な人事だが、サンスポのデスクだった植村徹也が動いた。野村は知の野球の素地をつくったが3年連続最下位。ズタボロ状態の阪神に大胆なカンフル剤の人事が必要だが、岡田彰布を次期監督として育てる作業もかかっていた。
そんな人物がいるか? 2001年10月、そこにトラ番キャップ稲見誠(現運動部長)が中日監督星野仙一の辞任をつかんだ。「革命を起こすのはこの男をおいて他にいるか?」。