61年のベロビーチキャンプでドジャースの選手と談笑する長嶋氏(左から2人目)と投手の堀本律雄(同3人目) 僕は立大時代から、米大リーグへのあこがれがありました。1954年の入学時から1年半、猛練習で鍛えてもらった砂押邦信監督の影響です。
監督は当時では珍しく、メジャーの野球を勉強していました。だから、単なるスパルタ指導ではなく、打撃理論やグラブさばきなど技術面から野球に対する考え方、メンタル面までメジャー流です。僕が大ファンだったジョー・ディマジオ(ヤンキース)のバッティングの連続写真を2人で見ながら「君は日本のプロではなく、メジャーへ行くべきだ」と言われていました。
58年に巨人入りしてからもメジャー流の野球をしようと決めていましたし、いつか米大リーグでプレーしたいと目はメジャーを見ていました。チャンスがなかったわけではありません。巨人は川上哲治監督が就任した1961年春、米フロリダ州ベロビーチで初めてキャンプを張りました。そのとき、ドジャースの関係者が僕に目をつけていたのです。
1968年の阪神戦で江夏豊の球に空振りして尻もちをつく。常に全力プレーだった66年秋に日米野球でドジャースが来日した際、ウォルター・オマリー会長が〝プロ野球の父〟といわれた正力松太郎・読売新聞社主に「長嶋を譲ってほしい。2年間でいい」と申し入れました。正力さんは「長嶋がいなくなると、日本の野球は10年遅れる」と即座に断ったそうです。巨人は世代交代を進めていた時期でもあり、仕方ありませんね。
《ウォルター・オマリーは03年、米ニューヨーク生まれ。42年にドジャースの顧問弁護士となり、50年にオーナー就任。58年に本拠地をニューヨーク・ブルックリンから現在のロサンゼルスへ移転させた。70年に社長に就任した息子のピーター・オマリーは、野茂英雄がド軍入りした際のオーナーとして日本でもなじみが深い。79年、75歳で死去》
64、65年に左腕の村上雅則が日本人初の大リーガーとしてジャイアンツでプレーしましたが、オマリー会長の願いが実現していれば、僕が日本人野手第1号です。当時は2年に一度のペースで日米野球が開催され、僕は通算70試合に出場して打率・291(203打数59安打)、5本塁打、25打点。ここでもよく打ちましたね。
(2014年12月5日付紙面に掲載)