PL学園高時代の桑田真澄氏(右)と清原和博氏(左)と(1985年8月19日撮影) 巨人2軍がイースタン・リーグを独走し、2年ぶりの優勝が目前に迫っている。桑田真澄2軍監督(57)は巨人を退団することになった2006年11月23日のファン感謝デー以来、19年ぶりの胴上げとなるが、今から待ち遠しい。
優勝に合わせたわけではないが、サンケイスポーツ毎週木曜日発行紙面で連載中の「野村note」に、ついに桑田さんが登場。ヤクルト監督時代の野村克也さん(享年84)が相手投手の傾向や攻略法などを書き残した1993年のノートを見てもらい、感想を語ってもらう企画だが、ボリューム満点だったため、18日発行から3回にわけてお届けすることになった。
巨人・桑田真澄2軍監督その取材の席で、桑田取材歴27年の記者が初めて聞いた、PL学園高時代の興味深い話があった。野村さんとの接点について質問すると「僕は高1のときに、野村さんのような考え方を持った人に出会ったのね」と話し始めた。
甲子園5度出場、夏2度制覇、春夏通算20勝という大記録を持つ桑田さんだが、「1年で清原が4番で、桑田がエースといわれたけど。4、5月はまったく歯が立たなくて、投手をクビになっていた」と仰天告白。そんな桑田さんを救った人がいた。
1983年、ライトで球拾いをしていると、右中間の入り口から一人の男性がグラウンドに姿をみせたという。「当時15歳から見ると、すごいおじいちゃんが入ってきて。おじいちゃんといっても、今の僕よりも若いかもしれない」
ヤクルト監督時代の野村克也さん。左は古田敦也捕手(1993年10月27日撮影)それは清水一夫さんで、報徳学園高、神戸製鋼の監督を務め、PL学園高の臨時コーチに招かれていた。2004年に73歳で亡くなり、当時は52歳だった。
「あのライトはピッチャーのボールを投げるな」と清水さんに聞かれた当時の中村順司監督は「彼は投手で通用しないから、野手をやらせているんです」と答えたそうだ。
ノムさんは2軍時代に寮で素振りをしていたことを褒められ、「一生懸命やっていれば、必ず誰かが見てくれている」と人生訓にしていたが、どんなときでも一生懸命やるのが桑田さんのポリシー。外野の球拾いでも、手を抜いていなかったのが、目に留まったのだろう。
「おまえいいボール投げるな。俺についてこい」と清水さんのマンツーマン指導がスタート。この出会いが人生を大きく変える転機となる。
「最初は〝なんや?〟と思ったけど。『風呂入るぞ。背中流せ』『湯舟入れ』といわれて。『1年生は入れないんですよ』(さすがPL!!)というと『いいから入れ』と。湯舟に入って手首のトレーニング100回。終わったら『俺の部屋来い』とマッサージをさせられて…。でも(手首を)鍛えてくれてたんですね」。
夏の暑いときに(外野の)ポールからポールまでダッシュを10本。スクワット100回、ジャンピングスクワット100回。ロウソクを立て「あれが消えるまでシャドーピッチングをやれ」と鬼メニューを課された。
ブルペンでは捕手役になった清水さんが「『よし受けてやる。アウトローだ』と。でも、少し横や高めでもスルーして『取ってこい。構えたところと違うわ』と捕ってくれない。アウトロー10球終わったら、次は左打者のアウトロー。捕りに行くのもしんどいから、必死に構えたところに投げた」。
コントロールに定評のあった桑田さんが、この練習で身についたのは間違いないだろう。そして夏の大阪府大会で、1年生ながら背番号17で野手としてベンチ入り。当時の登録は17人で、最後のひとりだった。
「大会が始まっても、抑えたことがない投手だから投げられない。バットを片づけたり、ボールボーイをやったり、弁当を配ったり、ブルベン捕手をしていた」。初戦の2回戦(対大阪学院大高)と3回戦(対守口高)は出番がなかった。しかし5-2で勝利した3回戦はギリギリの戦いで投手がいなくなる。