過去にサンケイスポーツ(大阪版)で連載された、球史の中で輝いた男たちを取り上げる「プロ野球三国志 時代を生きた男たち」をサンスポ公式サイトで再録。今回は2012年1月17-28日に掲載された小早川毅彦氏。ミスター赤ヘル・山本浩二からも「自分にはできないバッティング」と評された「赤ヘルの若大将」の野球人生を振り返る。
つかまり立ちも、よちよち歩きも、あっという間に〝卒業〟した。1962(昭和37)年夏、生後8カ月で歩けるようになった小早川は、1歳の誕生日(11月15日)を待たずに乳母車がいらない子になった。
現在のマツダスタジアム(JR広島駅の東側、広島市南区)の近くにあった当時の自宅から、広島市中心部の百貨店・天満屋に家族で買い物に行くときも、片道約2キロをトコトコと歩いてついていった。
「途中で、おんぶや抱っこをせがんだりもせず、デパートに着いてからも元気に走り回っていたそうです」
1歳になると、母・明美さん(86年5月7日死去、享年49)が投げるゴムボールをバドミントンのラケットで打ち返した。2歳と2カ月で補助輪を外した自転車に乗れるようになった。小学校の校長も務めた父・雅彦さん(76)が「長年子供の教育にかかわってきましたが、毅彦くらい運動神経の発達した子供は見たことがありません」と驚くほどのスーパー赤ちゃんだった。
しかし、幼稚園のとき、小児性の腎臓の難病を発症。5歳から入院生活を送ることになった。
「両親は、担当の医師から『助からないかもしれません。覚悟はしていてください』といわれていたそうです」
ある朝起きると、同じ病室の向かいのベッドにいた子がいなくなっていた。数カ月経つと、隣のベッドの子も姿が見えなくなった。
「元気になったから退院したんだよ」
両親や看護師からはそう説明された。それは本当だったこともあったが、違うケースもあった。病状が悪化して別の治療を受けるため転院していった子もいた。
「後になって、実は亡くなっていたと知ったこともありました」
幸いなことに小早川は1年間入院した後、退院。小学校にも遅れることなく入学できた。ただ、経過観察のため2週間に1度の通院が必要で、小4まで体育の授業も運動会も見学するだけになった。しかし、これも小早川少年の〝規格外〟の不思議なところだが「昼休み時間はドッジボールのヒーローだった」という。
「お医者さんからは『体育の授業も運動会もだめだよ』といわれました。だけど、休み時間のことは何もいわれていなかったので、動いてもいいんだろうと。勝手にそう思ったんです」
昼休みに動いて体がつらくなることもなかったという。かくして、体育の授業にも運動会にも出ないが、昼休みのドッジボールでは大活躍する小早川クンが誕生した。やがて、2週間に1度の通院は月に1度になり、2カ月に1度になり、春休みと夏休みに1回ずつになって、小5の春には体育の授業とクラブ活動が解禁される。
そのとき、昼休み時間のドッジボールのヒーローが選んだクラブ活動は、野球ではなく水泳とサッカーだった。=敬称略
■小早川毅彦(こばやかわ・たけひこ)1961(昭和36)年11月15日、広島県生まれ、61歳。PL学園高から法大を経て84年D2位で広島入団。一塁手として活躍し、同年新人王。97年ヤクルトに移籍し、開幕の巨人戦で史上3人目の3打席連続本塁打。日本一にも貢献した。99年現役引退。通算1431試合に出場、打率・273、171本塁打、626打点。タイトルは最多勝利打点1度(87年、16)。解説者を経て2006―09年、広島の打撃コーチを務め、10年から再び解説者。本紙専属評論家。現役当時は1メートル83、93キロ。右投げ左打ち。