1971年、阪急との日本シリーズ第5戦でウイニングボールをつかみ(背番号5)、V7達成。三塁手の長嶋(左)とバンザイ! 僕の頬には、悔し涙が伝っていた。目の前の長嶋茂雄監督に、やり切れない思いをぶつけた。
「黒江を切るなら私も辞めます、と何で球団に言ってくれなかったんですか…」。1978(昭和53)年のオフ。ホテルニューオータニの一室で、39歳だった僕は思いもよらなかった解任を告げられた。あのミスタープロ野球に、ここまで言ったのは、おそらく僕だけだろうね。
そのシーズン、巨人は2位。だけど、僕が守備走塁コーチに就いた76年からの2年は、いずれもリーグ制覇。日本シリーズでともに阪急に敗れたものの、75年最下位のチームを立て直した自負はあったからね。責任を取るなら、他のコーチだと思っていたんだ。
「クロちゃん、よくやってくれたけど、球団の考えだから」。長嶋監督の言葉に、僕の声は思わず上ずった。
3つ上の長嶋さんとは66年から三遊間を組んでV9を担い、監督とコーチとしてチーム再建に汗を流した。選手、コーチ時代を通じ、僕に与えられたのは長嶋さんの「お目付け役」だったように思う。ただ、今でも、その役割を果たしきれなかった思いが残っているんだ。
三塁の守備位置で長嶋さんは、ベンチから出る「ライン際に寄れ」「三遊間を詰めろ」などのサインをほとんど見ていない。打撃不振のときは、遊撃の僕の方に体を向けてマウンドにいる味方の投手のモーションに合わせ打撃の間合いを計っている。そのたびに「長嶋さん、ライン際のサインです」「ピッチャー投げますよ」と声をかけるのが僕の仕事だった。