2020年に死去した野村克也さん(享年84)は、自らの野球理論をノートに書き残していた。「野村note」に登場するライバル球団の投手らが、野村さんが初の日本一に輝いた1993年当時を証言する企画は、大洋、横浜(現DeNA)で通算128勝、133セーブを挙げ、ひげがトレードマークの斉藤明夫氏(70)の後編。ヤクルト打線を翻弄してきたが、打ち取られた打者にその後の数試合もボールの残像が残る〝後遺症〟を与え、野村監督からボヤかれたと振り返る。(取材構成・塚沢健太郎)
ヤクルトの本拠地神宮は大学野球と併用のため、試合前練習は隣接する神宮外苑で行われることが多い。そこで両チームは顔を合わせることになるが…。斉藤は野村監督から掛けられた言葉を覚えている。
「ヤクルト戦はカードの頭に投げていたというイメージ。当然、野村監督も分かっている。ウオーミングアップをしていると、野村監督が『今日はおまえだよな。また1週間、うちのバッターは調子が狂うな』と言われました。緩急でやられると」
野村ノートのコピーに熱心に目を通した斉藤氏。野村ヤクルトとの戦いの日々を振り返った熟練の投球術でヤクルトの若い選手が翻弄され、打撃がおかしくなってしまう。これぞ、最大級のほめ言葉といっていい。
1992年、当時37歳の斉藤はシーズン通算3勝8敗、防御率3・65だったが、リーグ優勝したヤクルトに対し、3試合に登板し3勝0敗で2完投。「(現役最後の数年は)投げたら抹消で、ヤクルト専門みたいな感じ。反対にいえば、そこは抑えて、使ってもらうしかないという考えもありました」と燕キラーに徹した。
同年9月のヤクルトは14年ぶりのリーグ優勝を前に、引き分けを挟んでの9連敗を含む8勝15敗1分けと失速したが、斉藤は6日(横浜)に3安打1失点で124球完投勝利。同15日(神宮)には6安打2失点で132球の完投勝利を挙げた。これがヤクルトにとって、9連敗中の7連敗目。「この前があったから工夫してくると思ったけど、そうでもなかったね」と高笑いした。
しかし、92年限りでライバルとしてしのぎを削ったチームメートの遠藤一彦(通算134勝)が引退。チーム名が横浜ベイスターズになった翌93年に斉藤もユニホームを脱いだ。決断したキッカケはヤクルト戦だった。