1999年2月21日の紅白戦で投手・新庄と対戦し、左中間二塁打を放つ和田。外野を守らせる―その一心で攻略した 92年の春季キャンプで和田(後方)と遊撃の位置でノックを受ける新庄。3年目のこの年は内野手登録だった衝撃の船出を果たした日本ハム・新庄剛志新監督(49)。その阪神時代を振り返る「タテジマでのビッグボス」第2回は、チームメートとして戦った和田豊球団本部付テクニカルアドバイザー(59)。新庄の二刀流を粉砕した紅白戦での快打は鮮烈だった。若き日のビッグボスを知り尽くす先輩として、また監督経験者として、エールを送ってもらった。(取材・構成=上田雅昭)
指導者になる予想ができたか? と問われれば「全く」だよね。ただ、阪神在籍当時からは想像できないだけで、その後のメジャー、日本ハム時代を知らないから。
タテジマ時代の新庄をひとことで言い表すなら「時代の先を行く男」。今、やっと時代が新庄に追いついたのでは。
阪神という伝統球団の中で、彼は型にはまらない、いい意味で自分を貫く、いい意味でやりたい放題。持って生まれた華があるから許せてしまう。不思議な男だった。
見栄えも、やることも型破りだった。でも性格は九州男児らしい、しっかりした考え方。人前では、エンターテイナー的な部分を前面に出しているけれど、実際には視野が広く、自分の考えを持っていて、簡単にはぶれない。考えを変えない。
就任直後の98年の秋季キャンプで新庄(左)と話す野村監督これって、監督をやるためにすごく大事な要素だと思う。今も、一生懸命に「こういう野球をしたい」とメッセージを発信している。言っている中身はしっかりしている。
入団した頃は、とにかくマン振りしていた。普通はどうやってミートしようとか考えると思うんだけれど、彼はフィニッシュが取れないぐらいのオーバースイングの繰り返し。当たれば飛んでいたなあ。当たれば、だったけれど。それが、徐々に成長していって。
彼を語る上で外せないのは守備。とにかく肩は強かった。最初の頃はスローはメチャクチャ。センターからのバックホームでバックネットにぶつけていた。それが、打撃同様に徐々に成長。やがて、相手走者が先の塁を無理して狙わなくなった。すると、わざと打球へのスタートを遅らせて、走らせてアウトにするという底知れぬプレーを見せていた。
「僕は外野の3分の2を守ります」
最初にそう言ってきた時は「何を言ってるんや」と思ったけれど、やがて本当にその表現がピッタリくるような守備範囲を誇った。
思い出深いのは1999年春のキャンプ。野村監督のアイディアで新庄の二刀流プラン(投手兼野手)が始まった。本人は真剣そのもの。実際に140キロ後半の速球を投げ込んでいた。20年以上前の二刀流だから、まさに「時代の先」を行っていたね。
迎えた紅白戦。「新庄は投手ではなく、外野の3分の2を守ってほしい。だから必ず打つ」と報道陣にも公言して臨んだ。そしていきなり左中間二塁打。常に感情を出さずにプレーしていたのに、あの時はガッツポーズしてしまった。珍しく楽しめた紅白戦だった。
どんな監督になるのか。同業者、野球人として「そんな簡単な世界ではないよ」と心配はしている。でも、ワクワク感のほうが強いかも。心配20%、ワクワク80%。今から開幕が楽しみだ。
◆新庄の二刀流挑戦 1998年オフ、阪神の監督に就任した野村克也氏は「新庄にもっと野球を深く考えさせるにはどうすればいいか?」と思案。思いついたのが投手に挑戦させる二刀流だった。「投手の心理を理解すれば、野球人の幅が広がる」という狙い。ただ、当初はこの真意をひた隠し、「肩が強いから投手もできる」とだけ説明してスタートさせたから、日本中の野球評論家を二分する騒動になった。
新庄自身は連日ブルペンで投球練習後に打撃練習して超ご機嫌。紅白戦登板後はオープン戦2試合に登板した。最後は足の故障もあり、無理させないということで打者専念でシーズンインした。
■和田豊(わだ・ゆたか) 1962(昭和37)年9月2日生まれ、59歳。千葉県出身。我孫子高-日大から85年にドラフト3位で阪神入団。2001年に引退。通算1713試合に出場し1739安打、打率・291、29本塁打、403打点。最多安打1回、二塁手としてベストナインに2回、ゴールデングラブ賞に3回選出された。02年から打撃コーチや内野守備走塁コーチなどを歴任。12年から15年まで1軍監督。174センチ、75キロ。右投げ右打ち。監督退任後は、15年12月からオーナー付シニア・アドバイザーを務め、17年11月からは球団本部付テクニカル・アドバイザーとして、データ分析やアマ球界の視察・調査を担当している。