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【サンスポ×日体大】森田淳悟氏、独創性&鉄の意志/バレー

【サンスポ×日体大】

森田淳悟氏、独創性&鉄の意志/バレー

特集:
サンスポ×日体大
現役時代の背番号8のユニホームを手にする森田氏。お家芸復活を期待した (撮影・只木信昭)

現役時代の背番号8のユニホームを手にする森田氏。お家芸復活を期待した (撮影・只木信昭)【拡大】

 「東京五輪」とバレーは切っても切り離せない関係だ。競技が初採用された1964年大会では“東洋の魔女”の優勝に国中が熱狂。銅メダルの男子は陰に隠れた屈辱を晴らそうと、松平康隆監督が8年計画で強化に努め、72年ミュンヘン五輪で金メダルを手にした。

 再びめぐり来る東京五輪で、バレー界の目標はビーチと合わせてメダル4つだが、森田氏は現実を見つめる。

 「本来なら今頃は世界に通用する選手がいて、『日本は手ごわいぞ』と相手に思わせていなければ。(2012年の)ロンドン五輪で女子はエースの木村沙織、セッター竹下佳江、リベロ佐野優子と世界レベルの選手が3人いて銅メダルを取れたが…」。今は男女とも“人材不足”だ。

 選手が世界に通用する存在になるには、「起きてから寝るまで、いかにプレーのことを考えて生活しているかだ」。常にバレーのことを考えることで独創性も生まれる。

 銀メダルを獲得した1968年のメキシコ五輪後、松平監督は選手たちに「どんなばかげたアイデアでもいい。一人ひとつ、新しい戦法を考えよう」と指示した。考え続けて悩んでいた11月のある日、日体大の東京・深沢キャンパス(現東京・世田谷キャンパス)体育館での練習でセッターが速攻のトスを上げるタイミングを間違えた。一瞬跳び損ねた森田氏が、まだ空中にある球を打とうと遅れて跳ぶと、先に跳んだブロッカーは降りていた。

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  • 1972年9月3日、ミュンヘン五輪1次リーグのブラジル戦で速攻を放つ森田氏(中央)。相手のブロックはスピードについていけなかった(森田淳悟氏提供)
  • 森田淳悟氏のサーブ
  • バレーボール・東京五輪までの主な国際大会
  • バレーボール・1972年ミュンヘン五輪男子日本代表