2015.7.7 11:00

【私の失敗(1)】瀬古利彦、母の懇願「死んだらあかん」(2/2ページ)

特集:
私の失敗
瀬古の五輪出発前日の様子を伝える1984年8月9日付の本紙。米国の運動生理学者が血液を分析し「2時間6分台も(可能)」という見出し

瀬古の五輪出発前日の様子を伝える1984年8月9日付の本紙。米国の運動生理学者が血液を分析し「2時間6分台も(可能)」という見出し【拡大】

 不調はお袋に打ち明けるまで、中村監督にさえ隠していた。7月の北海道合宿中に中村監督から突然、「がんになった」と打ち明けられた。「お前が命がけのところをみている。だから今は(病院に)行かない」と、マスコミには病名を胆のう結石と発表。悲壮な決意に「調子が悪い。休ませてほしい」と懇願するタイミングを失っていた。

 五輪が近づき、疲労は蓄積される一方だった。神宮外苑で行った20キロ走の直後に血尿がバッーと出ても休養を口にできなかった。たった一言で休めたのに…。苦しみを、せめて両親にだけは知ってほしかった。そんな気持ちから実家に電話をかけたのだ。

 金メダルの期待という重圧が現在とは比較にならないほど大きかった時代。私としては最悪の調子でよくやったと思ったが、14位で喜んでゴールするわけにはいかない。残念そうにフィニッシュラインを越えるしかなかった。

瀬古利彦(せこ・としひこ)

1956(昭和31)年7月15日生まれ、58歳。三重・桑名市出身。四日市工高から本格的に陸上を始める。2、3年時に高校総体800メートル、1500メートルを連覇。一浪後、早大へ進学。卒業後はヱスビー食品で活躍し、1984年ロサンゼルス五輪14位、88年ソウル五輪9位。マラソン15戦10勝。現在はDeNA総監督を務める。

(紙面から)

  • 1984年ロサンゼルス五輪男子マラソンで金メダルが期待された瀬古は14位の惨敗に終わった