2015.7.7 11:00

【私の失敗(1)】瀬古利彦、母の懇願「死んだらあかん」(1/2ページ)

特集:
私の失敗
1984年ロサンゼルス五輪男子マラソンで金メダルが期待された瀬古は14位の惨敗に終わった 

1984年ロサンゼルス五輪男子マラソンで金メダルが期待された瀬古は14位の惨敗に終わった 【拡大】

 男子マラソンの瀬古利彦氏(58)=DeNA陸上部総監督=は1980年代、世界最強のランナーと呼ばれた。その一方で、金メダル獲得が期待された2度の五輪でいずれも惨敗。明と暗、国民に強烈な印象を残した。指導者転向後も苦難の道を歩み続けた“悲運のランナー”が壮絶な人生を振り返った。

 「走れない」-。

 その一言が口から漏れると、ブワッーと涙があふれた。1984年8月のロサンゼルス五輪の2週間前だった。渡米直前になっても調子が上がらず、心身ともに追い詰められた私は、東京・千駄ケ谷の下宿先で黒電話を握りしめ、三重・桑名市で鉄工所を営む実家に電話をかけた。

 最初は兄(昭彦さん)が出たが、泣きっぱなしの私にビックリして、すぐにお袋(智子さん)へ取り次いだ。自分が何を言ったのか、お袋に何を言われたのか、記憶はおぼろげだが、こう諭されたことだけははっきりと覚えている。

 「とっちゃん(私の愛称)、死んだらあかんよ!」

 円谷幸吉さん(1964年東京五輪マラソン銅、68年メキシコ五輪前に自殺)の話を知っているから、私が死ぬんじゃないかと心配したのだろう。その日の夕方、練習から戻ると、下宿先に桑名から4時間もかけてやってきたお袋がいた。夕食は早大時代から指導を受ける中村清監督(当時ヱスビー食品)の家でごちそうになるのが日課だったが、この日はお袋と2人だけで食べた。

 「これだけ練習をやってきたんだからお母さんは(五輪に)出ても出なくてもいい。思うようにやりなさい。あなたの味方だから。走っても走らなくてもいい。自分を追い込んじゃいけない」。その言葉で覚悟を決め、レース目前で練習を1週間休んだ。

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  • 瀬古の五輪出発前日の様子を伝える1984年8月9日付の本紙。米国の運動生理学者が血液を分析し「2時間6分台も(可能)」という見出し