2019.5.21 16:28

【サッカーコラム】始まりは「ヤンマー」から、大阪ダービーの源流とこれから

【サッカーコラム】

始まりは「ヤンマー」から、大阪ダービーの源流とこれから

特集:
No Ball, No Life
G大阪サポーター=パナソニックスタジアム吹田(撮影・水島啓輔)

G大阪サポーター=パナソニックスタジアム吹田(撮影・水島啓輔)【拡大】

 【No Ball、No Life】令和初、そしてリーグ戦通算37度目となったG大阪とC大阪の「大阪ダービー」は、1-0でG大阪が勝利した。

 複数のクラブが同じ都市名を名乗り、かつ両者がJ1に所属するのは大阪の2クラブのみ。ダービーとしての認知度と熱狂はリーグ内でもとりわけ高い。「北のガンバ、南のセレッソ」の構図は今でこそ定着しつつあるが、その歴史は少し複雑で多様性を秘めている。

 C大阪の前身はヤンマーディーゼルサッカー部だ。1957年に創部され、70年代には3度のリーグ制覇など数多くのタイトルを獲得した。ガンバ大阪の前身である松下電器産業サッカー部は1980年に創部。この松下の創部には、ヤンマーのBチームだったヤンマークラブの人々が主体になった。結成時の選手13人のうち5人がヤンマークラブからの移籍組で構成され、初代監督もヤンマークラブで監督を務めた水口洋次氏。この創部年に、ヤンマーは4度目のリーグ制覇を成し遂げている。

 この松下時代から、チームが大阪北部を本拠地としたわけではない。創部時は強敵のいない奈良県リーグから出発し、関西リーグ昇格を果たすと拠点を松下電器の本社に近い枚方市へ移動。京都府京田辺市に田辺サッカー場を練習用に開場し、神戸中央競技場(現ノエビアスタジアム神戸)と長居陸上競技場(現ヤンマースタジアム長居)を主なホームスタジアムとして使用した。のちのライバルクラブの本拠地も使用しながら、大阪にとどまらず近畿各地を移動することで活動を成立させていった。

 80年代を境に両者の力関係は逆転し、Jリーグ発足時にはG大阪が「オリジナル10」として参入することになる。その初代監督を務めたのが、ヤンマーの大エースだった釜本邦茂氏だ。「関西の顔」として92~94年に指揮を執り、退任した翌年の95年からC大阪がJリーグ参入。複雑な人の移動を経て、ダービーの歴史が幕を開ける。試合前にサンケイスポーツに掲載した元日本代表FW播戸竜二(39)のインタビューを引用すれば「僕がG大阪でダービーに初出場した99年は、まだ大阪ダービーという熱はなかった」。両チームの試合に「大阪ダービー」の呼称が頻繁に用いられるようになったのも99年ごろからで、この印象と符号する。

 それから20年。37度目の対戦はくしくも、G大阪とC大阪の両チームで大阪ダービーの得点をあげたことがある倉田秋(30)の一撃で幕を下ろした。人が交わり場所を移動させ、たどってきた複雑な系譜はこれから、どのように発展していくのか。大阪ダービーはその熱を保ったまま、これからも続いていく。(サッカー担当・邨田直人)

  • ゴールを決めたG大阪・ 倉田秋