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【私の失敗(1)】大林素子、Vリーグ発足パーティー翌日「解雇」

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【私の失敗(1)】大林素子、Vリーグ発足パーティー翌日「解雇」

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大林、吉原の日立解雇を伝える1994年12月1日付のサンケイスポーツ最終版  元バレーボール女子日本代表の大林素子さん(48)は3度の五輪に出場。エースとして活躍したが、いずれもメダルには手が届かず、悲運のプレーヤーとなった。引退後はスポーツにとどまらずタレント、女優としてもマルチな才能を発揮している。スポーツ中継やバラエティー番組で見せる明るいキャラからは想像できない、挫折やコンプレックスを赤裸々に語った。

 「解職処分とする」

 手渡された紙に、そう書いてありました。日立に所属していた1994年11月30日の昼過ぎでした。

 午前の練習後、呼び出しを受けた私は近くの工場でバレー部の部長、副部長に会いました。そこで即日解雇を告げられたのです。午後3時以降は体育館への立ち入りを禁止する-とも言われました。続いてトモ(吉原知子)も。寮に住んでいたトモは「今日中に荷物をまとめて出ていきなさい」と命じられました。

 呆然(ぼうぜん)として練習場の体育館に戻ると、食事係のおばちゃんがいました。事情を話すと「じゃあ、パンを持っていきな」と、スーパーの袋に菓子パンやロールパンを詰めて渡してくれました。

 88年のソウル五輪で4位。その後の4年間、がむしゃらにやりましたが、バルセロナ五輪は5位。「どうすればメダルを取れる?」。そう悩んだとき、五輪のメダリストたちがイタリアのプロリーグ・セリエAに参加していることに思い至りました。

 当時の私たちは嘱託社員として身分が保証されていて、精神的な厳しさが足りなかった。だから日立所属の全日本(日本代表)選手9人でプロ契約を求めたんです。お金ではなく立場を変えてほしい、駄目ならプロチームを発足させる予定の会社へ移るから、辞めさせてください-。そう申し入れました。

 でも会社が認めてくれませんでした。その年から日本リーグがVリーグに衣替えすることになっていたので、部長に「リーグが終わってから考えるから、1シーズンだけ戦ってくれ」と頼まれ、辞表を撤回しました。

 11月29日にVリーグ発足記念パーティーに選手代表として出席。その翌日に解雇通告です。「リーグが終わったら考えるといってくれたでしょ」と訴えても、「そんなこと言いましたっけ」ととぼけられた。

 会社側から至れり尽せりでバレーだけを続けていた私たちでしたから、大事な約束事は書面に残しておくことなんて知りません。口約束など通じない、社会というものを思い知らされました。

 それでも1週間後からは、母校・八王子実践高の練習に参加するなど動き始めました。報道で「金目当て」「女帝」などと罪人扱いされ、「このままやめるわけにはいかない」という意地もありました。

 やがてセリエAにポジションの空いているチームがあると話をもらいました。年末には、イタリア移籍が決定。それまで日立に恨みしかなかったけれど、世界へ飛び出せたきっかけを与えてもらったので、100%の感謝に変わっていました。

大林 素子(おおばやし・もとこ)

1967年6月15日生まれ、48歳。東京・小平市出身。中1でバレーを始め、八王子実践高2年で日本代表初選出。日立入社後、88年ソウルから3大会連続で五輪に出場した。94年、日立を電撃解雇され、イタリア・セリエAのアンコーナへ移籍した。95年に帰国し東洋紡とプロ契約。97年に現役を引退した。その後はスポーツキャスターのほか、女優や歌手としても活動する。日本バレーボール協会広報委員、神戸親和女大客員教授。

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