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【関西レジェンド伝】正司歌江(2)妹・照枝とコンビ「天才少女漫才」

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次女の照枝(左、当時は照江)と漫才コンビを結成。男の子の格好で舞台に立った  私が7歳のころ漫才コンビを組んでいた都上英二さんが結婚して上京したため、漫才を仕込まれていた私と次女の照枝(当時は照江)でコンビを組むことになりました。そのうち、大阪の新興演芸に声をかけられ、千日前のアシベ劇場で初舞台。いまのビックカメラなんば店の近くでサウナがある所です。

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 すごいウケた。そりゃ、小さい女の子が男の子の格好して三味線とギターをやるもんだから、お客さん喜んで。初めて浴びた歓声と拍手がすごく大きな音で、びっくりして泣きそうになった。1941(昭和16)年、私が11歳、照枝が7歳のとき。家族で十三に引っ越しました。

 「天才少女漫才」と評判になりましたね。ネタは出たとこ勝負。照枝はもう、私のことをめちゃくちゃ言うしね。そのかわり、気分が乗らないとしゃべってくれない。私が1人でしゃべってるときもありましたよ。私たちが男の子の格好をしていたのはなぜかというと、女の子の着物はお金がかかるから。男性の衣装だと、ネクタイさえ換えればなんとかなるので、金がかからないんです。

 その頃は、夢路いとし・喜味こいし(当時は荒川芳博・芳坊)が子役の兄弟漫才で人気。電車の中でばったり会い、えらそうにお互いにらみ合っていた思い出があります。いとこいさんとは長い付き合い。私たち姉妹のけんかを止められるのはこいしさんしかいなかった。2011年にこいしさんが亡くなるとき、最期に会いたい人はと聞かれ、「うっちゃんに会いたい」と言ってくれたそうで。病院へ会いに行きましたよ。亡くなる3日前でした。

 照枝との漫才が人気になりましたが、なにしろ戦時中。京橋に大阪砲兵工廠(こうしょう)があって、兵器を製造していた。働く方は産業戦士なんて呼ばれていまして、そこへ慰問に行きました。

 当時はお給料もすごくもらっていて、月に700円。大阪府知事と同じくらいでした。両親は今里に家も買った。そして、ばくちばかりやってましたね。母は結核で、血を吐きながら壁にもたれてオイチョカブを。そして、終戦の年の2月に亡くなった。私が16歳になる前です。

 それからが苦労続きでした。一座にいた人と最初の結婚をして19歳で出産。父に反対されて、芸人やめると飛び出しました。難波にあったキャバレー「パラマウント」で働いたことも。「59番」が私の番号。よう売れましたね、歌うまいし。専属の歌い手さんがいるんですが、男性客から私に指名が入る。歌い手には嫌がられましたけどね。キダ・タローさんが「パラマウントの歌」を作曲したときも、キダさんの伴奏で私が歌っていました。

 その後、父がこいつと組めと連れてきた漫才の相方がひどい男で、えらい目に遭わされました。ギャラは独り占め。先にお金をもらうと全部使ってしまう。舞台で気に入らないことがあると、どつかれる。そのうち、人にだまされて、富山で芸者をすることに。大変な日々でした。

正司歌江(しょうじ・うたえ)

 1929(昭和4)年8月13日生まれ、89歳。北海道出身。56年に姉妹で音曲漫才トリオ、かしまし娘を結成。81年に活動休止し、女優として活躍。

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