【虎のソナタ】父が戦死、母は病に…貧しさ耐えた野村少年 吹雪の中、命懸けで通学する姿を連想し涙 - SANSPO.COM(サンスポ)

【虎のソナタ】父が戦死、母は病に…貧しさ耐えた野村少年 吹雪の中、命懸けで通学する姿を連想し涙

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 コロナ禍のなかでさぞかしストレスがたまっているハズの皆さま。せっかくですから本日までもうちょい佐藤輝明のまばゆい本塁打の“二日酔い”に浸りましょうや。好き勝手にウンチクをかたむけても、リモートならば絶対に密の心配はない。「コラ、そこのおっさんたち。何を集まってコソコソニヤニヤしとるんや。解散ッ!」なんて叱られる心配もないでしょう。

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 覚えていますか。2018年の2月11日はロサリオがDeNA戦で初打席でドカン! だが、シーズンではトホホでした。19年の11日はマルテが初紅白で初回に初アーチ…がグスンでした!

 昨年、矢野監督の2年目、2月11日はまたまたグスン。いえ、チームは日本ハムとの練習試合で青柳が好投し、5-0で快勝したのですが…。名将野村克也元監督が、虚血性心不全のため84歳で死去。ID野球の本家として、啓蒙的な分析など球史に歴然たる足跡を残して、旅立った日であります。

 そのノムさんへの惜別の想いを、当時トラ番キャップだった現編集委員上田雅昭は独特のユーモアをこめて当日の当コラムでこう語っているので、紹介しておく。

 -あの時(1999年)に阪神を断っていたらどうなっていたかな? と野村さんがたずねた。私はこう即答した。「あなたは阪神に来る運命なんですョ。必ず…」。その時のノムさんの苦笑いを思い出して涙が…。

 いささかなりとも野村克也という野球人に“接点”のある記者なら、野球を通じて『人間の取材』をたたき込まれた方は多いハズだ。

 まだピヨピヨ記者だった頃、南海の野村克也には基本的な記者教育を受けた。彼が生まれ育った網野町(現京丹後市)も訪れて、ドカ雪の中、生家も訪れた。3歳で父が満州で戦死し、母がガンにかかり辛酸をなめる。小2で新聞配達、それも高校生と同じ数量を背負って家計を助け、近所の赤ちゃんを背中に「子守のアルバイト」もした。どれほどの貧しさに耐えたのだろう。

 冬なら吹雪の中、バス代がないからバイト先の自転車を借りて、峰山高まで10キロの道のりを通った。途中の山越えでは何度も転倒して雪まみれになった。その道を筆者はタクシーで走りながら、背中を丸くした野村少年が命懸けで通った姿を連想して涙がこぼれた。その峰山のグラウンドをいまでも鮮明に思い出す。

 「京大に行ける」といわれた兄が、進学をあきらめて弟の高校進学を助けた。南海にはテスト生で入団し、契約金はなし。月給7000円。中百舌鳥の合宿所は一番粗末な部屋。母への仕送りは2000円。道具類は先輩のお古。この頃、南海は鶴岡監督が立大OBの大沢啓二を通じて、立教のスター長嶋茂雄と杉浦忠に「栄養補給代」を出していた。

 ノムさんの思い出はこうだ。1955年(プロ2年目)、巨人との日本シリーズ。当時カベ捕手(打撃練習用)として手伝いで試合前に出勤した。「巨人・川上哲治さんのスイング練習で、バットの先端が自分の影の先だけを“斬る”ことに驚いた」そうだ。後日、筆者は直接、川上氏にこの話をぶつけた。「フフ…。この素振りをすると膝が柔軟に回転するんだョ。野村がねぇ…」。単なるカベ捕手が、打撃の神様の“影を切る姿”から、打撃の極意を嗅ぎ取ってしまったのだ。佐藤輝にも、この野村克也の目線を継承してもらいたい。

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