【虎のソナタ】高木守道さんの人生にミスターの慧眼 - SANSPO.COM(サンスポ)

【虎のソナタ】高木守道さんの人生にミスターの慧眼

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中日で活躍した高木氏(左)。プロ入り前に長嶋(背番3)が自ら二塁手転向を進言していた  野球当番デスクの澄田垂穂が苦笑していた。

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 「48歳になって20年ぶりに眼科にいきましたョ。そしたら老眼ですって…」

 本日から日本の学生諸君は今年で最後となる「大学入試センター試験」という共通テストに挑んだ。挑むレベルにいなかった私などは「さよか…」という話ではあるがこの全国一斉の国公立大の『共通一次』が始まったのは1979年から。

 阪神はブレイザー監督で田淵幸一が西武に深夜のトレードで移籍。もっと生々しいのは、この年はドラフトで阪神と巨人が時間切れ寸前に「江川-小林繁」の交換トレードというドタバタ。猛虎党と巨人党(とくにガリ勉の諸君は)ハラハラドキドキの季節だったハズ。

 で、話を現在に戻すと澄田デスクは眼科医から「老眼でもマラソンでいえばまだ“10キロ地点”ですけど…」といわれたが、眼鏡をかけたらこれが実によく見えるとか。

 さて…その試験をパスしても、しなくても人生は巡り合う人物によって大きく左右するということを書きたいわけじゃない。先日、78歳で急逝された元中日・高木守道氏についてぜひとも青雲の志を持つ学生諸氏に書いておきたいことがある。

 筆者は若きトラ番の頃に出張のついでに県岐阜商高を訪ねた。その目的は同校にコーチとして出向いていた立教大1年の長嶋茂雄だった。この時に若き長嶋がバットを持ち、猛然と内野にノックを浴びせながらフト、彼の手が止まったという。「あのショートの最後尾にいる子はなんという名前だ」という。その時に県岐阜商高の遊撃手はかたまりとなって20人以上はいた。なのに若い長嶋は一目で「あの子はセカンドに向いている!」と言い切った。

 そして当時の野球部指導者にしきりに「二塁手にしたほうが…」と。この頃からミスターの感性は鋭かった。その話を聞いたとき誰もが内心で“何を言い出すんだ…”と思われたらしい。たかが東六のまだ1年生が後ろの方でボソッとしていた高1を一目見て二塁手に向いている、なんて…。

 筆者のその時の興味は県岐阜商高に長嶋が来たときに左翼にホームランをぶっ飛ばしたらしいが、それはどこまで飛んだのか…というヤジ馬的興味しかなかったのだ。

 しかし、高校1年の遊撃手はその時から二塁手もやらされて…早大進学をあきらめて中日に入団し、やがてバックトスの名手となり…のちに監督にもなっていく…。

 なぜ、1974年10月14日、後楽園での巨人-中日戦(これが長嶋涙の引退試合)に名古屋での中日Vパレードがあるのに高木はあえて主力選手として「僕一人でもいいから試合に出たい」と強硬に球団に申し出たとされているが、実は「今日の自分を発見してくれた恩人」という熱いものがあったのだ。筆者が言いたいのはあのパッパッとひらめきと独特のカンで人を見ていると思われるかもしれないが、高木守道の人生の“岐路”には長嶋茂雄の「人を見る目」が存在した。

 この日、阪神は原口文仁捕手が和歌山のすさみ町でチャリティーランイベントのあと、子供たちとの野球教室を織原祥平記者が追った。「とても子供たちはうれしそうでした。僕らも元気をもらいましたッ」という。

 高橋遥人投手は母校亜大での自主トレ。取材した菊地峻太朗記者も「先輩の山崎康晃投手(DeNA)や松田宣浩内野手(ソフトバンク)にハッパをかけられてイキイキしてました」との報告。もうそこに春爛漫!

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