阪神OB・鎌田実氏死去…吉田義男、三宅秀史とともに「鉄壁の内野陣」形成 - SANSPO.COM(サンスポ)

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阪神OB・鎌田実氏死去…吉田義男、三宅秀史とともに「鉄壁の内野陣」形成

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現役時代の鎌田氏のプレー。吉田、三宅と並び「守備で金が取れる」と言われた鮮やかさだった  阪神は2日、球団OBの鎌田実氏が1日午前9時30分に肺がんのため兵庫県内の病院で死去したことを発表した。80歳。通夜、告別式は親族のみで行う。球界に名を残す名二塁手として知られ、吉田義男、三宅秀史とともに「鉄壁の内野陣」を形成して1962、64年のリーグ制覇に貢献。引退後は少年野球教室を開くなど、広く野球の普及に努めた。

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 「空前絶後の遊撃手」と言われた吉田義男の存在によって、鎌田氏はしびれるような名二塁手となった。

 1957年に大阪(現阪神)タイガース入団。洲本高では遊撃手で、当初は慶大に進学するつもりだった。そこを当時、中日のスカウトだった佐川直行氏が猛烈に口説いた。「君ならすぐ1軍の遊撃でレギュラーになれる」。プロ入りを心配していた母も仕方なく賛成して、入団が内定。そして56年12月、佐川氏から「大阪駅で待ち合わせ」という連絡。えっ、中日なら名古屋駅じゃないの…と不思議に思いつつ大阪駅に着くと「君は今から阪神球団に行く」と言われて「腰が抜けるほどびっくりした」そうだ。

 なぜならその時、阪神には12球団No.1遊撃手の吉田義男がバリバリの現役でいたからだ。

 この時、佐川スカウトは中日を退団し、阪神に転職が決定していた。手土産代わりに日大三高の強打者並木輝男と、鎌田氏を引き連れて阪神にくら替えしたのだ。当然、2人は衝撃を受けた。だが、鎌田氏は「母を悲しませたくない」と阪神に入団し、すぐ二塁手にコンバートされて血のにじむような猛練習。もともとセンスがあるから、吉田義男、三塁の三宅秀史とともに「鉄壁」と呼ばれた内野陣を築く。

 バックトスを日本に初めて導入した選手でもあった。1962年に藤本阪神はリーグ優勝。ご褒美に翌63年春、米フロリダでのキャンプに参加した。そこでメジャーのコーチから「カマタには教えることがない」とまでいわれ、キャンプで初めてバックトスを学ぶ。のちに中日の高木守道のそれが有名になったが、鎌田氏のそれの方が「完璧」と評された。

 悪球打ちでも知られ、頭の上に来たボールでも打ち返してしまう「大根切り打法」にファンは喝采を送った。72年の引退後は解説者、近鉄、阪神などでコーチ。故郷・淡路島で少年野球の指導にも情熱を燃やした。温厚で口数の少ないシャイな性格は誰からも好かれたが…理論家だった。

鎌田 実(かまた・みのる)

 1939(昭和14)年3月8日、兵庫・三原郡広田村(現南あわじ市)出身。洲本高では「4番・遊撃」で活躍するも、甲子園出場はなし。57年大阪(現阪神)タイガースに入団。67年に近鉄にトレード移籍し、70年に阪神復帰。71年からはコーチ兼任で、72年に現役引退。通算1482試合で打率・234、24本塁打、264打点。引退後は解説者、93、94年は近鉄総合アドバイザー。2002年から淡路島に少年野球クラブを結成するなど普及に尽力した。現役時代は177センチ、75キロ。

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