【小早川毅彦のベースボールカルテ】ヤクルト時代、「人として」にまで及んだミーティング - SANSPO.COM(サンスポ)

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【小早川毅彦のベースボールカルテ】ヤクルト時代、「人として」にまで及んだミーティング

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ヤクルト時代の小早川毅彦氏  私は1997年から3年間、ヤクルトのユニホームに袖を通した。移籍1年目は野村監督、若松打撃コーチ。この日のOB戦で両チームの指揮を執ったお二人から指導を受けた。

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 広島時代に抱いていたイメージ通り、明るくて強いチームだった。猛練習には慣れていたが、ヤクルトも厳しく、決して楽だとは思わなかった。最も大きな違いは、キャンプでのミーティングの多さだ。休日の前日を除き、毎日全員で最低1時間。新人や移籍1年目の選手だけで、さらに1時間近く続いた。

 投手は初球がストライクだと、何を考えるか。捕手はどうか。ボールだったらどうか。2球目がストライクになるか、ボールになるかでまた変わる。さらにイニングや状況によって違ってくるから、時間はいくらあっても足りない。話は野球だけでなく、「社会人として」「人として」にまで及んだ。

 「ノムラの考え」は子供の頃から野球をやり、プロで10年以上プレーして当たり前のように感じていることを、もう一度自分の中で整理する機会になり、新たな発見もあった。若松コーチは、データを分析し、細かく丁寧に、分かりやすく方向性を示してくれた。

 そして迎えた97年4月4日の開幕戦(対巨人、東京ドーム)。私は「5番・一塁」で起用され、前年まで3年連続で開幕戦完封勝利をマークしていた斎藤雅樹から、3打席連続本塁打を放った。

 二回の第1打席は初球の真っすぐを打ち、先制ソロ。積極的な打撃は私の持ち味だった。1-2の四回はカーブを狙って同点ソロ。ミーティングで野村監督から「斎藤はカウント3-1から必ずカーブを投げてくる。誰か打ってくれ」と指示があり、それを実行できた打席だった。

 六回に3番・稲葉篤紀(現日本代表監督)のソロで勝ち越した後、シンカーを右翼席へ運び、斎藤を降板させた。チームは一度も首位を譲らないままリーグ優勝。日本一にも輝き、特に忘れられないシーズンになった。

 今思うと、広島で野球の厳しさを教わり、プロとしての土台、下地ができていたから、野村監督や若松コーチの考えをより理解できたのだろう。中身が濃い、充実した3年間だった。 (サンケイスポーツ専属評論家)

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