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【番記者が語るイチロー】鈴木一朗の原点は“反骨心”

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オリックス時代の1996年9月23日に日本ハム戦でリーグ優勝を決めるサヨナラ打を放ち、ジャンプして喜ぶイチロー。この年は3年連続のリーグMVPに輝き、チームも日本一になった  イチローが、ついにバットを置く。オリックスでシーズン最多安打となる210安打を放った1994年当時の番記者、親谷誠司・大阪サンケイスポーツ文化報道部次長(58)が安打製造機の思い出を語った。大澤謙一郎・大阪サンケイスポーツ運動部部長(46)は2006年ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)での思い出をつづった。

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★オリ担当・親谷誠司

 Mr.Children(ミスターチルドレン)の「innocent world(イノセントワールド)」を聴くと、1人の野球少年を思い出す。神戸市にあった旧オリックス合宿所「青濤館」の室内練習場。1994年に大ブレークを果たしたオフ、報道陣が誰もおらず、たった1人でイチローの打撃練習を間近で見る幸運に恵まれた。

 古いラジカセから流れるのはチームの誰かがつくったヒットソング集。音楽に乗って、楽しそうに投球マシンの球を21歳は打っていた。球拾いを手伝っていると、サービスか気まぐれか、誰かが置いていった金属バットを手に取って打ち始めた。

 130試合で210安打。大記録を打ち立てた直後だ。衝撃音のすさまじさと打球の速さ。満足したのか、すぐやめてしまったが、バッティングそのものを楽しむ開けっ広げな笑顔を、今もありありと思い出せる。

 45歳まで現役を続けられた原点は、プロ入り1年目の新人合同自主トレーニングにある。ドラフト4位のイチローは青濤館の風呂場で目にした、関学大から同1位で入団した田口壮(現オリックス1軍野手総合兼打撃コーチ)の体に打ちのめされたという。

 アメフットの強豪・関学大で、最先端の筋力トレーニングによってつくり上げた筋肉。こんな人たちと戦っていかなければならないのか-。筋トレに明け暮れる日々が始まった。

 「こんな小さな体で」「おもちゃみたいなバットで」。自らを鍛え上げ、登録名をイチローに変えてブレークを果たしてからも、そんな言葉を何度も聞いた。きっと、あの日の初心を、現役生活でずっと忘れなかったのだろう。

 ナゴヤ球場のバックネット裏最上段。父・宣之さんに連れられ、焼きそばを頬張りながらプロ野球選手になることを夢見ていた少年が、球史に数々の歴史を刻み、第一線を退く。あの日思い描いた自分を、とうの昔に追い越して。 (1994-96年オリックス担当)

★WBC担当・大澤謙一郎

 日本が初代王者になった2006年WBC終盤のある記者会見だった。イチローが王貞治監督(現ソフトバンク球団会長)に質問したことを明かした。その答えは「僕にとって勇気づけられるものでした。僕はいつもそのことで戦っていますから」。だが、内容は教えてくれない。気になって仕方なかったので、王監督に直接聞いてみた。

 アリゾナ州での大リーグとの練習試合の前だったという。打撃ケージ裏で選手のスイングをみていると歩み寄ってきた。

 イチロー 「王監督は打撃が簡単だと思ったことがありますか」

 ワンクッション置いてから、868本の本塁打を放った打撃の達人は手で何かを握るポーズをしながら、こう答えた。

 「そんな時期は一度もないよ。打撃のコツなんてつかんだ…と思っても、雲のようにスーッと消えていく。そんなもんだよ。それは現役を辞めるまで続くものだ」

 理想を極める日々は修行僧のような苦しみを伴うもの。それは目指す高みが高いほど、険しいものになる。イチローは王監督も経験した逃げ場のない日々についにピリオドを打つことになる。東京ドームには王監督が駆け付けていた。世界の王があっての世界のイチロー。恩師・仰木監督を失い、喪失感でいっぱいだった孤高の天才の唯一無二の支えになっていたと改めて確信した。 (2006年WBC特派員、大阪サンスポ運動部長)

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