【虎のソナタ】矢野監督のパッション堪能して - SANSPO.COM(サンスポ)

試合
速報

【虎のソナタ】矢野監督のパッション堪能して

更新

新人合同自主トレで八木裕氏(右)と握手する近本(左)。後ろは上田二朗氏  実はプチ自慢ではありますが、わが家からホンの直線にして70メートルの距離に、かつて湯川秀樹博士がお住まいでございました。

<< 下に続く >>

 だからといって…1907(明治40)年にお生まれになって、1981(昭和56)年9月8日、74歳で亡くなられた世界的な物理学者。『中間子理論』で日本人初のノーベル賞を受賞された大変な方ですので、別に私めは博士と犬の散歩でスレ違い、恐れ多くも立ち話で「中間子論」を戦わしたわけでは絶対にない。当たり前だけど。

 博士が亡くなられたときは阪神タイガースはブレイザー監督がなぜかヒルトンというヤクルトをお払い箱になった内野手をかわいがり、黄金のルーキー岡田彰布(早大から新人王。のちに監督)という誰がみても岡田選手の方が上で、シロウト目にもその差が歴然としていたのに…ヒルトンを優先した。そのために東京六大学の星・岡田は米・アリゾナのキャンプでも、いつもグラブを4個(遊撃用、二塁、一塁、外野用)持って球場入りした。そしてあっちこっちした。それでもブレイザーはヒルトンを優先し続けて、ついに阪神ファンや球団、トラ番の総スカンを食い途中退団。中西太さんが監督になり、入団2年目でやっと岡田選手は二塁手のグラブだけをもち「開幕戦二塁」として出場した。

 なんでこんな話を書くのかといえば、いくら資質に優れていても、使う側の監督がそんなにあやふやな起用をしては絶対に選手は伸びない。その点で監督が中西さんになって「岡田のスイングスピードは阪神の歴史を変える」とまで激賞した監督によって「開幕二塁手!」と安定したのであります。

 で、実は1907年のこの1月23日に生まれた湯川博士はのちに「ノーベル賞を受賞するコツは何か」と聞かれてボソッとたったひと言。

 「執念だョ…」

 え、と思いませんか。何事も基本はひとつなんです。この日に世界最強の碁の女性選手と手合わせをした仲邑菫(なかむら・すみれ)ちゃん(9)はホントにかわいい。負けましたが、対戦中のその目線の鋭さにはおじさんは走っていってヒシと抱きしめたい! とさえ思いましたぞな。

 さてその頃、鳴尾浜では阪神の若手が自主トレの真っ最中。取材した箭内桃子記者は「スタッフ会議もあるのでコーチ陣も全員が見つめていたし、取材陣もテレビカメラも多い。いつもより選手の気合が入っているのはビンビンつたわりました」という。竹村岳記者は「投手陣も競ってブルペンに入り汗をかいてました。スタッフ会議で1、2軍に振り分けられるんですから緊張感がピーンとはりつめていたのは当然です」と。

 サブキャップ長友孝輔は矢野燿大監督にへばりつきました。当然のことながら「今までにない“勝負師モード”にスイッチが入ってましたね。さりげなく『俺は昨年は2軍で選手をみていたから、こんどはその意地みたいなものを見たいんや…』とキリッといわれてました」という。そのとどまるところのない新監督のパッション(情熱)はどうぞ長友のタッチで堪能してください。

 指揮官は随所に若手をちりばめて“抜てき”している。「使う」といってまったく逆の行動に出た39年前のブレイザー監督は「野球は右脳と左脳の間でやるものだ」といった。つまり“シンキング・ベースボール”だがそれはすぐ崩れた。その翌年に中西太監督は岡田という素材に「チャンスは自分でつかめ!」といった。

 その言葉は太流のあの陽気さのなかに不思議な空気をかもした。岡田はキャンプにのめり込んでいく…。その泥だらけの背中に湯川博士のキッとなったセリフが重なる。

 「執念だ!」

PR