【ラグビーコラム】
MLRのシアトルに加入する山田章仁【拡大】
【ノーサイドの精神】トップリーグ(TL)・NTTコミュニケーションズのWTB山田章仁が米メジャーリーグラグビー(MLR)のシアトルに加入することが発表された。
「今回の挑戦と価値が近い将来にしっかりと結びつくようなものにできるよう個人的には大きな責任を感じています」
「みなさんへ、新しい山田章仁を披露できるよう今後も精進していきたいと思いますし、自分自身、新しい自分に逢えるのを楽しみにしています」
自身のブログで、山田はこう決意を記した。
MLRは2018年にスタートした米国のプロリーグ。シアトルは18、19年と2連覇(20年は新型コロナウイルスのため大会中止)しているが、3月末に始まった今季は開幕2連敗でウエスタンカンファレンスの最下位と、若干つまずき気味だ。リーグにはSHアンドリュー・エリス(ニュージーランド)、CTBマット・ギタウ、CTBアダム・アシュリークーパー(ともにオーストラリア)ら、TLでも活躍した元代表選手も所属している。
米国のラグビーは1875年、ボストンで最初の試合が行われた。国の成り立ちと同じように、英国から渡ってきた人々が東海岸で始め、だんだん西へと広がっていったようだ。FWはサイズが武器、BKもスピードと体の強さを生かすスタイルで、緻密さに欠けるが豪快なのが特徴。
日本との最初のテストマッチは1985年。来日した米国が秩父宮で、日本を16-15と際どく寄り切った。翌年は日本が米国に渡り、ロサンゼルスでのテストマッチは9-9の引き分け。この遠征には筆者も帯同した。5~6月の1カ月を使い、東から西へと移動しながら米国で6試合、カナダでも2試合(ともにテストマッチは1試合ずつ)という、長期遠征だった。
最初に訪れたニューヨークでの初練習は、工場や倉庫に囲まれたグラウンドで、散らばっているガラスや小石をチームで拾うところから始まった(筆者も手伝った)。別の練習場では、アテンドする地元の関係者が鉄柱をタイヤで固定して据え付ける、お手製のゴールポストをしつらえてくれた。当時の米国のラグビーの置かれた環境が、よくわかる。
それでも1987年の第1回大会からW杯に出場(95年の第3回大会のみ不出場)。日本のW杯最初の対戦相手でもあった(18-21で日本の負け)。競技人口150万人は世界でも2番目の多さと聞いて、意外に感じる人もいるだろう。27年以降のW杯開催国に名乗りを上げるという観測もあり、米国内でラグビーへの注目度が上がれば、強国になるポテンシャルを秘めている。
田中浩(たなか・ひろし)
1983年入社。ラグビーブーム全盛期に担当を約10年、その後デジタルメディア、ボクシング担当、アマ野球担当などを経て2008年から運動部一般スポーツ担当デスクを務め、14年秋に二十数年ぶりにラグビー取材の現場に復帰。秩父宮ラグビー場でトライ(高校都大会決勝)と東京ドームでヒット(スポーツ紙対抗野球)の両方を経験したのがプチ自慢の60歳。