国学院久我山・中村誠元監督の熱さほとばしる著作「一所懸命」

ラグビーコラム
中村誠先生の本「一所懸命」

 【ノーサイドの精神】高校ラグビーの名伯楽の一人、元国学院久我山高監督の中村誠先生がこのほど、「一所懸命」という本を出版した(鉄筆発行、消費税別2000円)。同高の創部70周年を記念しての出版だ。

 中村先生は日体大を卒業した1959(昭和34)年に同高に奉職し、ラグビー部監督に就任。5度目の花園出場を果たした後の74年から、自筆のガリ版刷りで「OB通信」を書き始めた。4度の全国制覇を果たし、部長に退いてもコツコツと100号を超えるまで書き続けた「OB通信」を基に書き下ろし部分も加えた自伝的なもので、久我山ラグビー部の歴史も分かる一冊だ。

 「OB会が奔走してくれた。感謝、感謝ですよ」

 そう話す中村先生とは筆者も浅からぬ縁がある。早大学院2年で花園初出場を決めた(筆者はリザーブ)ときの決勝の相手が、全国制覇最右翼といわれた久我山だった。このときの悔しさが本の中でも2ページ余りにわたってつづられている。翌年春の決勝では50点差をつけられてコテンパンにやられた。この年の久我山は花園決勝でも、黒沢尻工(岩手)から当時決勝最多となる40点を奪って圧勝。史上最強と呼ばれるチームだった。

 スポーツ紙の記者としても、84年度から花園で取材した。この年は初戦の2回戦で報徳学園(兵庫)に敗れてしまい、ラグビー場から近鉄の東花園駅まで向かう先生にずっとぶら下がっていったことを思いだす。

 「何も話すことなんかないよ」と憮然(ぶぜん)としていた先生が電車に乗る直前、「私の指導が至らなかったことに尽きる。生徒に責任はない。そう書いておいてください」と口にして去って行った。

 その翌々年度、50歳になる節目の年に4度目の全国制覇を果たす。このときは「生徒たちがよくやった。私なんて、たいしたことはやってないよ」と話した。

 筆者とは同じ子年生まれ。干支(えと)で二回りも違うが、いつお会いしても偉ぶったところはどこにもない。「OB通信」も毎号送っていただいた。「ラグビーは教育だ!」が「一所懸命」のサブタイトルだが、まさにそれを地で行ったのが中村先生の半生ともいえる。

 その「OB通信」発行のきっかけも、「お金集め」だったという。

 「昭和45、46年ごろ、どうやったら強くなれるかと考え、当時全国優勝の常連だった秋田工に学ぼうと。秋田遠征をしたかったが、やはりお金がかかる。OBからの援助ということになるがただ“お金を出して”じゃ集まらない。近況報告も兼ねて定期的に届けることで、OBもお金を出しやすくなると思いましてね」

 発行元「鉄筆」の渡辺浩章代表は元早大FL。トレードマークのつぶれた耳から「ギョーザ」の愛称で(現在も)呼ばれる“炎のタックラー”だったが、今回の発行の準備で中村先生のもとに何度も通った。そのたびに記憶の確かさに舌を巻いたという。

 「頭の中でノートが整理されている。よっぽどラグビーに熱を入れていたんでしょうね」

 そして中村先生は、2010年から昌平高(埼玉)ラグビー部総監督を務め、昨年度の同高初の花園出場にも力を尽くした。今春も昌平高は埼玉NO・1の地位を守り、2年連続の花園を視界にとらえている。

 「全国高校ラグビーもあと3回で100回大会になります。それを見届けたら、潮時かなと思ってます」

 “引退宣言”も出た中村先生だが、なんのなんの、今年でまだ82歳。元気な姿をまだまだ見せていただかないと。

 ◎読者のみなさんに「一所懸命」をプレゼントします。応募要項は6月21日のサンケイスポーツラグビー面をごらんください。

田中 浩(たなか・ひろし)

 1983年入社。ラグビーブーム全盛期に担当を約10年、その後デジタルメディア、ボクシング担当、アマ野球担当などを経て2008年から運動部一般スポーツ担当デスクを務め、14年秋に二十数年ぶりにラグビー取材の現場に復帰。秩父宮ラグビー場でトライ(高校都大会決勝)と東京ドームでヒット(スポーツ紙対抗野球)の両方を経験したのがプチ自慢の57歳。

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