PLAY!スペースインベーダー展【拡大】
大学2年の春、街では大変なことが起こっていた。
スペースインベーダーというゲームがそこかしこの喫茶店に置かれ、百円玉を積み上げてプレイする客がコーヒーもほったらかしでレバーとボタンを操作し続けていた。まるで中毒患者のようだった。大学周辺にはマージャン荘が10軒ほどあってどこもにぎわっていたが、たった半年程でその数を超えるインベーダーハウス(ゲーム喫茶店)が大学周辺に展開したのだ。1978年初夏に登場したインベーダーゲームは恐ろしい勢いで日本中を侵略していた。
これより前にもエレメカ(ドライブや魚雷戦など電気仕掛け遊技機器)や先行したビデオゲームはあった。だが、インベーダーゲームは群を抜いて「ゲーム性」が高かった。勝利条件、双方向性、競技性そして自己承認欲求、サウンドによる演出や心理作用、攻略手法の考案やバグによる予期せぬ効果、そして待機画面に添えられたキャラクターアニメーション。すべてが40年前に存在していた。
後のゲームの面白さの定義は、すべてインベーダーゲームに盛り込まれていた。
我が輩は、日本人は「リバイス民族」だと常々言っている。
造船、鉄鋼、自動車、家電、オーディオ、ビデオなどの工業製品から、カレー、ラーメン、ウイスキー、ビールといった飲食物、漫画、アニメなどの娯楽コンテンツまで、世界が認めるほとんどの事物は「海外で生まれたモノ」を日本人が「上手に改良したモノ」なのだ。工夫技術にたけた民族性だ。
インベーダーゲームもまた、先行例としてはテニスを模した「PON!」、ブロックを崩す心理的楽しみを考案した「ブレイクアウト」、車に乗ってヒト(悪魔)をひき殺す「デスレース」などのビデオゲームがあった。
これらを横目に見ながら、世界のゲーム産業を変えた傑作を生んだのは、西角友宏氏だった。遊技機器の輸出入商社だったタイトー社の小会社でピンボールやエレメカそして先駆的ビデオゲーム機のメンテナンスを担当していた西角氏は、親会社とアタリ社との合弁を否定し独力で国産初のビデオゲーム機の開発に挑み、インベーダーゲームのヒットを生んだわけだ。
この経緯は、黒川文雄氏の以下のインタビューに詳しい。
ゲームマニア必読の取材記事だ。
黒川文雄
伝説のメイドインJAPANゲーム「スペースインベーダー」が世界を侵略した日(http://storys.jp/story/24591#page_top)
さて、先月終了した六本木ヒルズ53階展望室スカイビューで展示された「PLAY!スペースインベーダー展」に行ってきた。
“スペースインベーダーと遊ぼう!”をテーマに「スペースインベーダーギガマックス」を中心としたインタラクティブなゲームが楽しめる体験型の展覧会です。
会場には『スペースインベーダー』の歴史をひもとく展示コーナーや限定カフェも登場、かつてゲームで遊んだ世代も知らない世代も、さまざまな角度から『スペースインベーダー』を楽しめるこぶりなイベントだった。
マニア向けのミュージアムではなく一般層、ファミリー層、そして東京の眺望や夜景を楽しみに来る内外の観光客に向けた展示としては、申し分ない。
ま、ひとつだけ欲を言わせてもらえば、大型プロジェクターを使った巨大な『スペースインベーダー』のプレイスクリーンの設置角度を斜めにして「奥行き」を出してほしかった。
オリジナルのアーケード版はアップライト筐体もテーブル筐体も、ディスプレー画面は斜めまたは平面置きだ。これにより「奥側から手前の陣地に攻めてくるインベーダー」「手前の防御陣地に攻め込まれる恐怖感」が強調される。
だが、今回の展示は(会場の天井高のゆとりもあってか)、垂直方向にプロジェクションして敵は上から下に攻めてくる構図となっていた。『ギャラガ』っぽい。
FPSの感覚が欲しかったかなと。
これ、他の場所での巡回展示が行われるならば、ぜひ、ご考慮頂きたい。
高橋 信之
スタジオ・ハードデラックス株式会社 代表取締役 東京国際アニメフェア実行委員 日本アニメーター・演出協会 応援団長 アニメ記者クラブ/アニメプレスセンター 起案者・理事「出版や広告、商品開発、映像メディアで活動するプロデューサー/プランナー。アニメ、SF映画、ビデオゲーム、玩具、デジタルデバイスなどを得意分野とし、多くの雑誌編集者やデザイナー、映画監督と交流する。