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【軍事のツボ】戦後70年と軍神の今 なぜ日本人はこれほど時代に流されたのか

特集:
軍事のツボ
旧万世橋駅前広場の広瀬中佐像が建っていたと思われるあたりにあるモニュメント(撮影・梶川浩伸)

旧万世橋駅前広場の広瀬中佐像が建っていたと思われるあたりにあるモニュメント(撮影・梶川浩伸)【拡大】

 近代、すなわち明治維新以降の日本は大きな戦争をいくつも経験し、そのたびと言っていいぐらい「軍神」が誕生して、多くの銅像が作られた。しかし第2次世界大戦(大東亜戦争)の敗戦で多くは撤去されてしまう。敗戦から70年。かつてあれほど多くの国民の注目を浴びていた軍神の像は、今どうなっているのか。東京周辺で振り返ってみたい。

 軍神には明確な要件があったわけではない。最初は日露戦争当時、新聞や雑誌などが冠し始め、小学校や国民学校の教科書にも登場するようになり、そして昭和2ケタになるころから軍が公式に指定するようになった。

 最初に軍神とされたのは広瀬武夫中佐と橘周太中佐だ。そして乃木希典大将、東郷平八郎元帥、肉弾三勇士(爆弾三勇士とも呼ばれる)、真珠湾攻撃時の九軍神、加藤建夫少将、関行男中佐らが挙げられる。

 東京にあった銅像で最も有名だったのは、旧万世橋駅前にあった巨大な広瀬中佐と杉野孫七兵曹長の像だろう。広瀬中佐(作戦時は少佐で戦死後、進級)は、日露戦争中の1904年(明治37年)3月27日、旅順港閉塞作戦で杉野孫七兵曹長を探すうちに戦死した。死後、広瀬中佐ブームに新聞などのメディアを先頭に国民がわいた。そのなかで1910(明治43)年、巨大な銅像が完成した。台座も含めると高さ約11メートル。東京見物の定番スポットだった。

 しかし敗戦後のGHQの占領政策のなかで、日本の内務省が1946(昭和21)年に軍国主義に結びつく像や碑を撤去する「通牒」を出した。それに基づいて東京都が設置した「忠霊塔、忠魂碑等の撤去審査委員会」により、1947(昭和22)年5月、撤去対象に指定された。

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