赤井英和(1)ブルース・リーにあこがれ便所蹴り壊す

関西レジェンド伝
1歳半のころ。こんなかわいいときもあったんでっせ

 関西にゆかりの芸能人が自らの歴史をひもとく「関西レジェンド伝」。今回は、大阪市西成区出身の俳優、赤井英和(59)が登場。「浪速のロッキー」と呼ばれた人気プロボクサーが壮絶なリング禍を経て、俳優に転身して30年。激動の人生を語ります。

 プロボクサーから転身して、芸能生活も30年。自伝「どついたるねん」を出したこともあって知っている方も多いかもしれませんけど、しばらくお付き合いください。

 生まれは大阪市西成区の太子。通天閣がそびえ立っているのがよく見えます。実家は阪堺線の今池駅の近く。今はもう閉めていますが、祖父母の代から続いていた「赤井商店」という漬物店でした。車庫兼納屋で漬物をつくってました。

 近くには釜ケ崎のドヤ街。いわゆる釜ケ崎暴動は家の中から見てました。労働者が警察と衝突して、投石やらパトカー燃やしたりとか。それが今では、通天閣の周りもすっかりきれいになって、10代の女の子に人気のジェラート専門店なんかあるらしい。変われば変わるもんですわ。

 僕は8カ月で小さく生まれたから、ちゃんと育つんかいなと言われてたらしいけど、幼稚園に入る頃にはいちばん大きくなってました。

 うちの裏に西成警察署があって、友だちに誘われて少年柔道教室に通うようになりました。「柔道一直線」や「いなかっぺ大将」の影響で、空手は悪、柔道は正義という雰囲気。正義の味方ならええわと思って、今宮中学でも柔道部に入りました。

 ところが、その頃になると大山倍達先生の「空手バカ一代」の影響で空手が人気に。林派糸東流の道場に通い始めました。ブルース・リーにもあこがれた。「燃えよドラゴン」(1973年公開)は道頓堀ピカデリーに一日じゅう居座って4回連続で見たもんです。

 力余ってたんかなあ。中学に海パン持っていって、水泳部の連中に俺も泳がせろと言って泳いだり、卓球部の連中どかして柔道着のまま卓球やったり。校舎がボロくてね、傘で天井を突いて穴をあけたり。黒板に傘を投げたら突き刺さるんですわ。おもろいからバンバン突き刺して、ダーツみたいにしてましたわ。

 横蹴りで男子便所の個室の仕切りのベニヤ板を壊し、次は女子便所の板もすべて蹴り壊した。過激派の仕業じゃないかと警察沙汰になったけど、足型を測って赤井の仕業やろとバレて親と謝りに行った。けっこうな額を弁償させられたらしいですわ。

 誰もが廊下でたばこを吸ってた時代。僕はショートホープ一筋。空手道場の帰りには、労働者のおっちゃんに誘われて立ち飲み屋でビール飲んどった。中3の終わり、就職するやつもけっこうおったけど、6歳上の兄に「なんや、浪高も行かれへんのか」と言われ、カチンときて勉強。私立浪速高校に受かった。

 合格発表の翌日、喫茶店で一服してたら、今宮中の2年先輩で浪速高ボクシング部の主将だった須藤雅彦先輩がいて「あした高校に来い」と。併願してた公立高の試験も残ってたんやけど…。その日から洗濯やらマウスピース洗いやら、させられてました。須藤先輩が怖すぎて2年生は全員退部して、1年生は僕1人だけ。これがボクシングとの出会いやった。

赤井 英和(あかい・ひでかず)

 1959(昭和34)年8月17日生まれ、59歳。大阪市出身。浪速高でボクシングを始め、近大在学中にプロ転向。「浪速のロッキー」の愛称で親しまれた。83年に初の世界タイトル戦に挑戦するも敗戦。85年に重傷を負い引退。プロ通算21戦19勝(16KO)2敗。引退後は俳優、タレントとして活躍する一方、2011年にアマチュアボクシング指導資格を取得した。

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