2020.11.17 07:30

【虎のソナタ】西本幸雄氏に虎再建託したかった 78年近鉄V逸で監督辞任意思も結局残り…

【虎のソナタ】

西本幸雄氏に虎再建託したかった 78年近鉄V逸で監督辞任意思も結局残り…

特集:
虎のソナタ
1978年、近鉄監督時代の西本幸雄氏

1978年、近鉄監督時代の西本幸雄氏【拡大】

 阪神の秋季練習が15日からスタートした。フェニックス・リーグの行われていた宮崎から帰阪し、この日、甲子園に駆けつけたトラ番織原祥平が、やや新鮮な印象をうけたのは投手陣の熱のこもったバント練習だ。担当の久慈コーチからしごかれている秋山と青柳がタップリ40分。

 「今年の阪神はここ一番のバントという場面で投手は結構、もったいないハラハラがありましたし…。久慈さんも熱が入っている感じでした」

 今季のバント成功率はリーグトップではあったが、大事な場面でのミスはあった。タッタ一つのバントが決まってりゃ巨人とあんなにも離れることはなかったかも…。米国の経済学者ガルブレイズの『不確実性の時代』という本が話題になったのは1978年だが、阪神は脱コロナ時代の『不確実バントの時代』からの卒業が急務だ。

 とにかく阪神は振り向くと今年に限らず“不確実性の時代”が続き、ガルブレイズ教授の本が出たころから監督がいつも短命で辞任していく傾向が続いて、習性? となってしまった。監督兼任で苦労した村山実(70-72年)、選手に反発された金田正泰(73、74年)、そして75年に就任した第1次吉田義男監督も結局3年目の77年に4位転落で辞任。後藤次男が78年に2度目のワンポイント。「監督不確実性の時代」と皮肉られた。

 誰かいないか。いや一人いた。西本幸雄。厳格で基礎からの教育者。78年は近鉄の監督5年目。だから当時の阪神球団社長長田陸夫氏に「虎の再建には西本監督がいいです!」と進言した。だが彼は近鉄の監督なのだ。自分が強くした阪急に挑み、この年のパ・リーグ首位攻防、後期の9月23日『藤井寺決戦』。“最後の300勝投手”鈴木啓示(歴代4位317勝)が25勝していたから誰もが近鉄の初Vを確信した。ああしかし…。

 阪急○4-2●近鉄

 この年は前、後期とも阪急が優勝したため、プレーオフは無い。「ご苦労やったな」。七回に交代を告げに出た監督西本の目にキラリと光るものがあった。試合後、球場食堂で近鉄はシーズン終了の打ち上げ。この時、西本監督は選手のテーブルをまわり全員にビールをつぎ、労った。

 監督が辞める-。

 実はシーズン中に西本監督は再三グラウンドで練習中に胃を押さえてしゃがみこんでいた。今年で近鉄から身を引くかもしれない…と見た。「体調さえ戻れば、彼の情熱は阪神再建に必要な指揮官だ」と強く思った。

 「監督! 僕らを見捨てんとくださいッ」と鈴木は涙ながらに叫ぶ。その光景を見て、これはやばいぞと思った。試合の記事を社に送稿してから深夜に宝塚の西本邸の呼び鈴を鳴らした。「監督ッ(近鉄を)辞める気ですか?」。何のことはない。鈴木投手と同じ心情だ。

 しばしの沈黙。「5年もかけてまで勝てないのは…」と言った。それが本音。西本幸雄という監督の情の深さに負けた。西本さんによる「阪神再建」を強く長田球団社長に奨めていたのに、思わず「近鉄を見捨てないで!」と口走ってしまった若造記者の“不確実性の極み”。トドのつまり西本さんは近鉄に残った。あの時、阪神西本監督が実現していたら、翌79年、近鉄と広島の日本シリーズでの「江夏の21球」のドラマはない。

 阪神は78年オフにブレイザー監督が就任。田淵幸一の放出、「江川ドラフト」で日本中を二分していく。

 「若い集団の活気がありますョ。すべてこれからの集中性です」とは甲子園からのサブキャップ安藤理の電話だ。情熱という紅葉をたいて燃え上がらせ、来季への“炎”にはいつもそこに西本幸雄の残像がダブるのだが…。