2015.10.14 11:00(1/2ページ)

【私の失敗(2)】黒江透修、幼少期の事故で指が変形…クラブでは手を隠し

【私の失敗(2)】

黒江透修、幼少期の事故で指が変形…クラブでは手を隠し

特集:
私の失敗
1972年、沢村賞を獲得した堀内(右)を祝う。銀座の「遊ふぎ利」にて

1972年、沢村賞を獲得した堀内(右)を祝う。銀座の「遊ふぎ利」にて【拡大】

 現役時代は食べに、飲みに、よく出歩いたな。6歳下の柴田勲、10歳下の堀内恒夫らと馬が合った。先発前夜の堀内を飲みに連れて行って、川上哲治監督にこっぴどく怒られたこともあったな。もちろん、銀座にも繰り出したよ。でもね、僕はクラブやスナックでは常に両手のひらをテーブルの下に隠していたんだ。

 「お父さん、指がなくなっちゃったよ…」

 人生最大の失敗。小学校5年のときだったな。実家は鹿児島県姶良(あいら)町(現姶良市)で精米業を営んでいて、幼い頃から僕はよく手伝っていた。当時の精米機というのは、天ぷら箸のような長い2本の棒を使って半乾きの麦をローラーの中につっついて入れていくのだが、ある日僕は棒を使わず、指でその作業をやってしまったんだ。

 痛い! ローラーの中に指が巻き込まれた。あわてて引き抜いたが、血だらけの右手人さし指は第1関節から先がない。戦後間もない頃、近くには大きな病院もなく町医者で応急手当てをした程度。もう野球はできない…と観念したよ。

 でも、そのうちに、ほとんどなかった爪が伸びてきたんだ。爪の根本がほんの少し残っていたんだな。あと数ミリでも深く削られていたらアウトだった。よし、これでまた野球ができる。

 ただ、そこからが大変だった。キャッチボールをやるにしろ、ボールをリリースする際、人さし指の先に縫い目が引っかかる。すぐに腫れ上がり、血が噴き出す。鹿児島高へ進むと、打撃投手を命じられた。あちこちから「ボールに血が付いているぞ。誰だ?」という声が上がる。恐る恐る手を挙げると、「もうオマエは投げなくていい」。投手失格だ。

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  • 1964年の都市対抗野球に、熊谷組の補強選手として出場。1回戦の三菱重工神戸戦でヘッドスライディング