2015.5.28 11:00(1/2ページ)

【私の失敗(3)】太田幸司、本意ではなかった「甲子園のアイドル」

【私の失敗(3)】

太田幸司、本意ではなかった「甲子園のアイドル」

特集:
私の失敗
女性ファンにサインする太田(左)。フィーバーぶりに戸惑うばかりだった

女性ファンにサインする太田(左)。フィーバーぶりに戸惑うばかりだった【拡大】

 「最大の失敗は、ある意味、三沢高を選んだことかもしれませんね。野球では楽しい思い出しかありませんけど…」

 46年前の夏、三沢の名を全国にとどろかせた太田。3季連続で甲子園に出場し、甘いマスクから「甲子園のアイドル」と呼ばれるほどの人気を集めたが、女性ファンのフィーバーぶりと、マスコミの報道合戦は、決して本意ではなかった。三沢高への進学を決めたとき、人生の舵が大きく切られたのだ。

 「三沢一中時代の進路希望は、八戸高でした。青森で一、二を争う文武両道の県立校。甲子園は昨年まで夏6度、春1度出場しています。一方、三沢一中と道路を挟んで隣にあった地元の三沢高は、甲子園なんて考えられないほど弱くて。最初は行こうなんて考えもしませんでした。しかし決して裕福ではないし、三沢基地勤務の父だけでなく母も病気がち。八戸だと家を離れなければならないという問題がありました。当時の三沢高は今ほど学力のレベルが高くなかったので、三沢高に進むと決めた途端に受験勉強をやめてしまいました。仲間と3年間、野球を楽しめばいいと思ったんです」

 最後の夏が終わると、プロ入りか、進学かに注目が集まった。「9月は高校選抜の一員としてブラジルに遠征しました。羽目なんか外せませんよ。現地でも甲子園のことが報道されていて、けっこう騒がれましたからね。高校最後の大会は、10月の長崎国体。再び松山商に負けて終わりました」。試合後の会見には、佐伯達夫・高野連会長が同席するものものしさ。報道陣の質問は卒業後の進路に集中したが、太田は下を向いたままだった。

【続きを読む】

  • 1969年秋のドラフトで近鉄から1位指名を受け、青森県三沢市内の自宅で母・タマラさん(左)、父・暁さん(右)とともに会見