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【私の失敗(3)】渡辺久信、通訳不在にがく然…指導できない

【私の失敗(3)】

渡辺久信、通訳不在にがく然…指導できない

特集:
私の失敗
1992年、マウイキャンプでの渡辺(左)と郭泰源。盟友に誘われ、台湾で指導者の道を歩み始めた

1992年、マウイキャンプでの渡辺(左)と郭泰源。盟友に誘われ、台湾で指導者の道を歩み始めた【拡大】

 指導者なので、けがをしても構わない。教えるためにチームの若手の投げ方をまねしたり、アンダースローや、サイドスローで投げたりして手本を示した。日本でもそこまであがいておけば、もっと現役にしがみつけたかな(笑)。

 それでも言葉が通じないのは不自由なので、中国語の家庭教師を雇って勉強したよ。週に1度、2時間で授業料は1000元。当時の日本円に換算すると約4000円だね。台湾の平均月収ぐらいの金額なんだから、そりゃ一生懸命に教えてくれるよ。1年くらいで日常会話レベルは覚えて、ヒーローインタビューも中国語で受けたよ。

 台湾は僕に合っていたね。同時期に台湾でプレーした石井丈裕(現西武アカデミーコーチ)は日本語が飛び交う大都市の台北のチームだったけど、僕が行ったのは中部の嘉義という小さな街。戦前、日本の統治時代は、嘉義農林が甲子園を沸かせ、昨年映画でも脚光を浴びたが、今は日本語がほとんど通じない。でも、地方に行ったことが、よかったのかもしれないな。

 単に「野球をやりにきた」というのは嫌だったから、自分からなじもうとしたし、普通の人ができないことをたくさん経験した。原付きバイクで日本人が観光で行かないようなところも訪れて、台湾の奥深くまで見てきたよ。あの3年間は、かけがいのない経験。もし行かなかったら、その後、西武に戻ることもなかったんじゃないかな。

(紙面から)