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【私の失敗(4)】高田繁、浪商エースで甲子園立てず…投手断念

【私の失敗(4)】

高田繁、浪商エースで甲子園立てず…投手断念

特集:
私の失敗
1961年夏の甲子園決勝で桐蔭を下し、優勝行進する浪商ナイン

1961年夏の甲子園決勝で桐蔭を下し、優勝行進する浪商ナイン【拡大】

 私が投手をやっているようでは、やっぱり無理だったんだな。間違いなく、次も行けると思っていた甲子園は果てしなく遠かった。1961年、浪商(現大体大浪商)に進学した1年の夏。準決勝で柴田勲さん(元巨人)擁する前年優勝の法政二(神奈川)、決勝で桐蔭(和歌山)に勝ち、全国制覇することができた。1学年上に「怪童」と呼ばれたエースの尾崎行雄さんがいたからね。今まで実際に見た投手の中で、真っすぐは誰がすごいの、って言ったら尾崎さんだね。

 下級生にもいい選手がいたから、2年の春夏、3年の春夏と甲子園には5回行ける、と思った。でもそこからだよ、歯車が狂ったのは。尾崎さんがプロ入り(東映=現日本ハム)するため、2年で浪商を中退。突然、エースがいなくなった。そして、後を託されたのは、何と私だった。竹内啓(あきら)監督は、それまで外野手と、尾崎さんの控えとして投手を務めていた私に「お前が投げろ」と。1学年下の選手も、まだ成長段階だったからね。

 1年の夏、ベンチ入りできる最後の背番号「14」をもらった。左翼は、ロッテにいた薮田安彦投手の父、明さんがレギュラーだった。ところが甲子園で病気になって、2回戦から私が出場することに。薮田さんが病気にならなかったら、出番はなかったと思うよ。高校に入って甲子園に出たい、という夢がかない、優勝もできた。だが、投手で甲子園に行くのは無理だった。

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