2015.2.1 11:00(2/2ページ)

【ダイエーホークス創世記(1)】薄給ブラックさも日本一…南海から脱皮

「福岡ダイエーホークス」2代目監督となった、“ミスタータイガース”こと田淵幸一=1990(平成2)年3月

「福岡ダイエーホークス」2代目監督となった、“ミスタータイガース”こと田淵幸一=1990(平成2)年3月【拡大】

 余談だが身売り直前の南海ホークスにあってスター選手が不在なのは当然の成り行きだった。ドラフトで指名した選手の契約金や年俸はほとんどが分割払い。アマチュア選手たちの「もっとも行きたくない球団」の代表になっていた。南海最後のドラフト1位で入団した左腕・吉田豊彦などは「ボクは本当はドラフト1位じゃないんです」と衝撃の告白。

 いや、そんなことはない。1987年に立浪和義(中日)の外れ1位で確かに君は指名されているよ-というと。「実は指名後にスカウトの方が家に来られて『1位で指名したが、君の評価は3位。だからウチは3位としての契約金や年俸しか払えない。それでもよかったらウチに来てくれ』と言われたんです。情けなかったけれど、その時のボクにはイヤとは言えませんでした」なんとも悲しいお話だ。

 1991(平成3)年、ダイエーの編成部長に就任した穴吹義雄がまず手がけたことは、そんな旧南海選手の年俸を大幅にアップしてもらう球団との交渉だった。

「とにかくアマ選手が行きたくなる球団になること。それはダイエーへ行けば、こんなに給料がもらえるんだ-と世間にアピールするしかなかった」。穴吹は12球団全選手の年俸を金額で色分けした大きな表を作り、編成部の部屋の壁に貼り付け、球団幹部や本社上層部に「ホークスの年俸はこんなに安い」と説き続けたという。これが「南海」から「ダイエー」に名前が変ったばかりのホークスの実態だった。(毎週日曜日掲載)

 こんな状況の中で私は若き総帥・中内正という男に出会ったのである。(産経新聞、田所龍一)