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【ありがとう八十年(47)】広岡達朗、キャンプに参加…わいた東京六大学への興味

特集:
レジェンドが語るプロ野球史
早稲田大野球部で指導する、早大OB・広岡達朗氏

早稲田大野球部で指導する、早大OB・広岡達朗氏【拡大】

 旧制呉一中(現呉三津田高)2年の時に終戦を迎えた。海軍兵学校への夢が絶たれ、さてどうするかということになった。おやじ(誠一さん)は海軍を辞めてサルベージ会社に勤めたが、家計は苦しい。とても大学へ進学できる状況ではないものの、戦死した長兄(晋さん)が通った山口経専(現山口大経済学部)には行きたいと思った。

 野球の方は西中国大会決勝で山口・柳井高に敗れ、甲子園には出場できなかった。三塁手の私が一塁へ悪送球したことがきっかけで逆転負けしてね。その時点でまだ3点リードしていたのに、投手が「お前がエラーするようじゃ、もう勝てん」と泣き出した。力尽きたんだろう。勝負は最後まであきらめてはいけない、と教えられた。

 実は4歳上の兄(四男・富夫さん)は広島県庁から広島カープに入った変わり種なんだ。子供の頃から器用で、運動神経も私よりはるかにまさっていたが、まさかプロになるとは思わなかった。私のプロへの道筋は、細々と芽生えていたんだ。

 《広岡富夫は1928年2月20日生まれ。呉二中から呉土木、広島県庁を経て、52年に内野手として広島入団。57年7月30日の国鉄戦では、完成したばかりの広島市民球場1号となる本塁打を放った。59年に引退するまでの通算成績は打率・204、25本塁打、91打点。引退後は社会人の山陽特殊製鋼の監督を務めた。2009年、82歳で死去》

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