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【ありがとう八十年(45)】広岡達朗、生まれ育った海軍の街で培った“軍律”

特集:
レジェンドが語るプロ野球史
広岡達朗氏

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 世間は私の野球スタイルを「管理野球」だの、「海軍式野球」だのと評してくれるが、ルーツは生まれ育った広島・呉にあると思う。

 呉は昔も今も軍港。子供の頃は海軍工廠(こうしょう)があり、戦艦大和もここで造られた。おやじ(誠一さん、68歳で死去)は海軍の大尉で、駆逐艦の機関長を務めていた。一兵卒から、これ以上は昇格しないと言われた大尉まで上り詰めたのだから、勉強家で何事にも全力投球だった。

 私は6人兄姉の末っ子だが、おやじは子供にも全力投球を要求し、クラスで2番、副級長に落ちると怒るのなんの。かばうお袋(こみゑさん、53歳で死去)がかわいそうで、迷惑をかけてはと兄姉全員がよく勉強した。

 中でも長兄(晋さん)は最も期待に応え、当時は地元の広島大よりレベルが高かった山口経専でトップ。25歳の時にパプアニューギニアのブーゲンビルで戦死したことになっているが、おやじは「晋は英語がペラペラだから捕虜になっていれば生きている」と終戦後、復員船が入る舞鶴に何度も出掛けて探し続けた。

 《山口経専は官立山口経済専門学校の略称。前身は1905年に設立された官立山口高等商業学校で、44年に山口高等学校、同師範などを統合して改称された。51年に廃止され、山口大経済学部の母体となった》

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