バッキー氏「思い出の中には常にオクサンがいる」

ワンス・アポン・ア・タイム(4)
現役時代のバッキー氏(右)と吉田義男氏(左)。阪神での日々は、バッキー氏にとって大切な思い出だ(本人提供写真)

 毎週火曜日に旬な話題をお届けする新企画「サンスポ火曜ワイドスペシャル」。阪神助っ人歴代最多の100勝を挙げたジーン・バッキー氏(80)による「ワンス・アポン・ア・タイム~昔々の物語」がラストを迎えた。猛虎のレジェンド助っ人が亡き妻への思いとともに涙の最終章となった。(聞き手=丹羽政善通信員)

 そういえば、あれは巨人戦だったかな。ボール回しをしている時、何気なく土でプレートを隠した。それで20~30センチ前から投げたことがある(笑)。正確にどれぐらいだったかは覚えていないけど。捕手は辻(佳紀)さんだったんだけど、あるバッターが「きょうのバッキーさんは速いね」って言ったって言っていた。辻さんも知らなかった。審判も知らなかった。1回だけだけどね。試合が終わるまで誰にも言わなかった。確か、その試合は勝ったと思う。

 そしてこれも巨人戦だったと思うけど、ある試合で、球審が際どい球をまるでストライクととってくれなかった。「ドウシタノ!」といっても返事がない。それでボールの代わりにロージンバッグをグラブに入れておいて、辻さんとサインをかわしてから、ボールを投げるようにしてロージンバッグを投げた。審判の頭を越えて、バックネットまで飛んでいったんだ。あれはびっくりした。あんなに飛ぶなんて(笑)。球審が「バッキーさん、ダメ!」って。でも、退場にはならなかった。

 そこで「ストライク、トキドキ、オネガイシマス」ってお願いした。あの頃は、体は大人なんだけど、子供が野球をやっているような感じだった。みんな、そうやって野球を楽しんでいた。

 (バッキー氏は1968年に阪神を退団。69年に近鉄に移籍したが0勝7敗と復活できず、現役を引退した)

 米国に帰ってからは中学校で教師をしていた。25年ぐらいかな。サウスウエスタン・ルイジアナ大学(現ルイジアナ大ラファイエット校)で教師の資格を取っていたから。何を教えていたかって? ガソリンエンジンの構造を教えたり、木で何かを作ったり、皮細工なんかも教えていた。

 牧場もやっていて、多いときで、60頭ぐらい牛がいたかな。牧場としてはあまり大きい方ではないけれど、引退してからも忙しかった。学校が終わってから牛の世話をしていたからね。今は息子が引き継いでいるけど、休みなんてなかったな。

 

 オクサン(ドリス夫人)も学校の保健室で働いていた。看護師さんだから。でも、オクサンは(自分の仕事を)引退して、数年後に亡くなってしまった。2011年1月16日(74歳)だ。オクサンは引退後の生活を楽しむことができなかった。もう7年になる。でも、近くに家族がいるからね。

 そういえば長女のリタ(55)は小さい頃、日本語を話していた。朝ごはんを食べているとき、こう言ったんだ。

 「ママ、ミルクがないよ」

 日本語だった。今でも覚えている。でも、こっちに帰ってきて、すぐに忘れてしまった。

 言葉は難しいよね。実は僕のおじいちゃんは、英語がまったく話せなかった。僕のひいおじいちゃんがフランスから米国にやってきたんだ。僕も小さい頃は、おじいちゃんと一緒に住んでいたから、フランス語に囲まれて育った。だから小学校へ行くまでフランス語のほうが得意だった。

 吉田(義男)さんとフランス語で話せるかな? 彼は確か、フランスチームの監督をしていたよね?

 1969年に引退したのは、その前年に負傷した親指の骨折が原因ではない。あのときは、お医者さんがきちんと治してくれた。選手生命が短くなったのは腰が原因だ。

 近鉄時代、三塁線の打球を処理しようとしたとき、グキッとなった。それ以来、僕の体は以前と同じではなくなった。その影響は今もあって、体がまっすぐにならないんだ。

 あぁ、いろいろな話をしていると、日本に行きたくなってしまう。でも、本当は日本のことを思い出すのは少し、辛いことなんだ。

 勘違いしないでほしい。全てが素晴らしい経験だった。本当に楽しかった。でも、その楽しい思い出の中には、常に僕のオクサンがいる。だから、日本のことを思い出すと、亡くなったオクサンのことも思い出して少し寂しくなる。だから日本のことを話していると、楽しいはずなのに、なぜか涙が出てしまう。

 子供たちも母親を思い出すみたい。日本の思い出の品は、屋根裏部屋にある。僕はもうそこには上がれない。子供たちに「整理をしてくれ」って頼んでいるんだけど、母親を思い出すみたいで、上がりたがらないんだ。 (おわり)

★金田さんが脱ぎたてトレーナー父にくれた

 【金田正一さん】ここに金田(正一)さんが来たことがある。39年前のことだ。友達と一緒だった。

 当時、まだ僕の父親が生きていたんだけど、金田さんが着ていたトレーナーのことを褒めたら、金田さんがその場で脱いで「どうぞ」とくれた。父親はどうしたらいいか、戸惑っていたね。

 ロン・ギドリーを知っているか? ヤンキースで140勝を挙げた名投手で背番号49はヤ軍の永久欠番になっている。彼もこの町の出身なんだけど、金田さんが来たときに一緒に食事をした。その時、彼がたまたま金田さんの時計を「いい時計ですね」と褒めたら、それを外して渡していた。

 ギドリーも戸惑っていたけど、お返しとして彼のグラブを金田さんにプレゼントしたはずだ。愉快な人だった。2、3日、ここにいたんだ。

 そういえば、きのうの店(シーフードレストラン)に金田さんとも行ったんだ。そしたら彼は「すしが食べたい」という。店の人に「ない」といわれたけど、生の魚はある。彼は調理場に入って、自分で魚をさばき始めた。そして、すしを作って食べたんだ。

★取材後記

 丸2日。あるときは食事をしながら、あるときは昔の映像を見ながら、朝から晩まで阪神時代のことはもちろん引退後の生活、子供たちの成長、孫やひ孫の話を聞いた。

 「泊まっていけ」という。それは辞退した。とにかく気を使う人。歩くのが不自由なバッキーにそれ以上、気を使わせたくなかった。

 車ではどんなところにでも出かけていく。生まれ育った家、教壇に立った中学校、母校の野球の試合。行く先々で懐かしげに思い出を語る。子供たちにプレゼントされた庭のブランコでは、一緒にワインも飲んだ。

 「人生、長いなんて嘘だ(笑)。ここまであっという間だった」

 取材2日目の夜、娘さんたちも交えて食事をした。「できればもう一度、この目で甲子園を見てみたい」。思い出を楽しげに語っていたバッキーが、ふいにそう漏らすと、涙が頬を伝った。

 その思いをかなえられないだろうか。もし、メッセンジャーが通算100勝に達するその日、そこにバッキーが居合わせることができたら-。

 そんなことを考えながら、ラファイエットを後にした。 (シアトル通信員=丹羽政善)

ジーン・バッキー(Gene Bacque)

 元投手。1937年8月12日、米ルイジアナ州出身、80歳。サウスウエスタン・ルイジアナ大からマイナーリーグを経て62年8月に阪神にテスト入団。上手、横手からの変幻自在な投法とナックルボールを武器に、64年に29勝9敗、防御率1・89で最多勝、最優秀防御率に輝き、外国人投手初の沢村賞を受賞。チームを優勝に導いた。同年のシーズン200奪三振は2014年にメッセンジャー(226奪三振)に抜かれるまで、阪神の外国人投手のシーズン最多記録だった。1965年6月28日の巨人戦(甲子園)ではノーヒットノーランを記録。69年に近鉄に移籍し、同年引退。通算8年で251試合登板、100勝80敗、防御率2・34。現役時代は1メートル91、91キロ。右投げ右打ち。

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