2020年に死去した野村克也さん(享年84)が、ヤクルト監督として書き残した1993年のノートを、ライバルの証言でひもとく連載。9人目の証言者は、広島の左腕エースとして立ちはだかった川口和久氏(66)。ヤクルトが黄金時代を築く前、セの覇権を握っていたのは、広島だった。球団として初優勝した1975年から91年までの17年間で6度のリーグ優勝を果たし、Bクラス転落はわずか2度。しかしこの93年、カープは正捕手交代という転換期にあった―。(取材構成・加藤俊一郎)
広島について記述したノートには、他の4球団とは明らかな違いがあった。川口もその違いにすぐ気づいた。正捕手の交代が、インタビューのテーマになった。
「配球の傾向がたくさん書かれているね。達川さんが引退したからだね。正捕手が西山になった年だね。タイプが全然違うし、達川さんの配球に慣れきっていたから、大変だったなあ」
1992年限りで、正捕手として広島投手陣を支えてきた達川光男が現役引退。10月4日、巨人戦の前に、電撃的に引退の意思を球団に伝え、この日が現役最終試合と引退セレモニー。91年のリーグ優勝に貢献したものの、92年は捕手出場が97試合にとどまり、西山秀二に先発マスクを譲ることが多かった。
野村は、達川のリードを「かた破り型の配球」と高く評価していた。92年のノートには、川口―達川の配球傾向についてこう書いている。
変化球は3球まで、ただしストレート系は4、5球と続く。ちどり(直球と変化球を交互に続ける)の配球はほとんどない。
かた破り、すなわち読みづらい配球。「達川さんとは、ノーサインで投げることが多かった。ヤクルト戦でも他の相手でも、読まれていると感じる時はね」と、川口は明かした。
達川が右手を膝に置き、手首を立てたら変化球、動かさなければ直球。変化球とさえ分かっていれば、達川は後ろにそらさず全て捕球できた。「第1変化球(カウントを稼ぐ球種)はカーブ、第2変化球(有利なカウントで使う球種)はスライダー、と決めておく。あとはあうんの呼吸だった」。
北別府、大野、川口、長冨、佐々岡らカープ投手王国を導いた正捕手が不在となった翌93年のノート。ほぼ全投手のページに、西山の配球が記されていた。その傾向は明らかだった。佐々岡のページでは、こうだ。
①第1ストライク 変化球ボール→変化球(初球変化球がボールなら2球目も変化球)、ストレートボール→変化球、変化球ストライク→ストレート、ストレートストライク→ストレート。
②内角ボール→内角なし、内角ストライク(空振り)→内角速球。
③変化球空振り→変化球。
④ストレート2球のあとは90%変化球、ストレート3球のあとは100%変化球。
⑤前打席の関連。変化球を凡打のあとはストレート、変化球を安打のあとは変化球。ストレート系を凡打のあとは変化球、ストレート系を安打のあとはストレートから、90%。
⑥同じ球種を続けない、2球までが基本。
そして、左腕の川口のページにも、こう記されている。
西山の配球の傾向は川口も同じ
「確かにそういう傾向があったのだと思う。ただ、西山も気の毒だった。チームは優勝した91年がピークで、投手も世代交代期を迎えていた」
93年、ヤクルトは広島を18勝8敗と圧倒。5月19日の神宮で延長14回、17―16の死闘は象徴的だった。この時点で首位を争っていた広島は、最終的に首位から27ゲーム差、74年以来となる最下位に沈み、山本浩二監督は退任。しかし不動の正捕手からのチーム継承に苦しんだ西山は、翌94年にゴールデングラブを受賞。苦しみを糧にした。 =敬称略
■川口 和久(かわぐち・かずひさ) 1959(昭和34)年7月8日生まれ、66歳。鳥取県出身。鳥取城北高、デュプロを経て81年ドラフト1位で広島に入団。3年目の83年に15勝(10敗)を挙げて主戦投手となり、84、86、91年の3度のリーグ優勝(84年は日本一)に貢献。95年にFAで巨人に移籍し、96年のリーグ優勝時には抑えを務めた。98年に現役引退。通算435試合登板、139勝135敗4セーブ、防御率3・38。2011年から14年まで巨人でコーチを務めた。21年から郷里の鳥取県で県特産ブランド米「星空舞(ほしぞらまい)」の生産に取り組みながら、球児に野球指導をしている。
★「追い込まれてからよく粘る」ヤクルトが苦手
通算139勝を挙げ、カープの代表的な左腕エースだった川口は、ヤクルトが苦手だった。巨人に33勝、阪神に36勝、中日に30勝、横浜に25勝を挙げているが、ヤクルトには12勝(20敗)にとどまり、登板試合数も他の4球団より少ない。
「神宮のマウンドの傾斜が僕に合わなかった。力を入れると高めに抜ける、力を抜くとタイミングが変わる。かわすタイプじゃないので苦しかった。野村監督になってからは、追い込まれてからよく粘る。そうなると縦の変化が多い僕よりも、左右に散らす投手の方がヤクルトに通用した」
12勝して優勝に貢献した91年に230奪三振でタイトルを手にしたが、93年はシーズン8勝。球速が140キロに届かなくなった。巨人移籍後の96年に取り組んだトレーニングで左肩の可動域が回復。同年の「メークドラマ」で抑えを務め、優勝を決めた10月6日の中日戦(ナゴヤ)で胴上げ投手になった。
※「野村note」は毎週木曜日のサンケイスポーツ紙面に掲載