1963年2月、近鉄キャンプでの鎌田(兵庫・明石球場) 過去にサンケイスポーツ(大阪版)で連載された、球史の中で輝いた男たちを取り上げる「プロ野球三国志 時代を生きた男たち」をサンスポ公式サイトで再録。今回は2014年1月10-22日に掲載された鎌田実氏だ。バックトスで一時代を築いた阪神の名内野手。吉田義男との「二遊間コンビ」は、虎史上最強と語り継がれている伝説の二塁手の、波瀾万丈の野球人生を振り返る。
阪神から「扱いにくい選手」というレッテルを貼られた鎌田は、1966年秋、近鉄にトレードで放出された。28歳だった。
「現役選手としては一番からだが動く時期。とにかく野球だけに集中したかった」
阪神を去る寂しさよりも喜びの方が大きかったが、近鉄でもすべてが思い通りにいったわけではなかった。
移籍2年目の68年。遊撃手が鎌田のバックトスを捕り損ねたことが発端となり、三原脩監督から「バックトス禁止」を通達されてしまう。
当時、一部のマスコミは「三原監督との確執」と騒ぎ立てた。阪神時代からマスコミ嫌いで距離を置いた鎌田は、肯定も否定もしなかった。それから36年―。
「あのとき監督室に呼ばれたけど、僕は三原さんに反発なんかしてないよ。バックトスは、阪神時代の63年の米フロリダキャンプでメジャーの選手はみんなやっていたこと。それを日本のプロ野球にも浸透させたいと考えていたことも三原さんに伝えた。三原さんは僕の話を真剣に聞いてくれた。監督を何人も観てきたが、三原さんを一番尊敬しているし、すごい方だと思っている」
三原は、西鉄を56年から3年連続日本一に導き、〝魔術師〟と呼ばれた指揮官。その後、弱小チームだった大洋も優勝へと導いた。大胆な選手起用や采配で知られたが、選手とのコミュニケーションを大事にする気配りや繊細さも兼ね備えていた。
「僕が体調が悪くて外野のフェンス際で行っていたアップから外れたときがあった。そしたら、ベンチで報道陣と談笑していた三原さんがダッシュしてきて『先輩(鎌田のニックネーム)、どこか悪いんか』と。そんな目配りもできる監督だった」
鎌田は翌69年のシーズン終了後、古巣の阪神に復帰する。70年から兼任監督となった村山実が「カマ(鎌田)は近鉄のユニホームは似合わん」とトレードを打診して実現したのだ。
近鉄で通算3年。三原監督の下でプレーしたのは、わずか2年だった。三原イズムを受け継いだ1人に、西鉄の2番打者として活躍し、後に近鉄、オリックスで監督を務めた仰木彬がいる。
「三原さんと一緒に野球をする期間は短かったけど、母子家庭で育った僕にとっては親父みたいな存在だったんや。今思うと、僕も仰木さんのように『三原監督』を演じたかったなあ」
翌70年に三原も近鉄を退団した。71年からヤクルト監督を3年間務め、75年に日本ハムの球団社長に就任すると、72年、現役を引退し野球評論家として活動していた鎌田にコーチ就任を要請している。
「三原さんから『日本ハムのコーチをやらないか』とお誘いがあったんやけど。当時、三原さんの側近に、僕のことをライバルと意識する人がいて『鎌田はやめときましょう』と反対して、この話は実現しなかったんだ」
確執や不仲説を打ち消すようなエピソードだ。周囲に気を配り、選手とのコミュニケーションを大事にして…。鎌田は現在、神戸大海事科学部の野球部監督やボランティアで開催している子どもたちへの野球教室で、〝三原イズム〟を発揮している。=敬称略
■鎌田実(かまた・みのる)1939(昭和14)年3月8日生まれ、兵庫県出身。洲本高から57年に大阪タイガース(現阪神)に入団。主に二塁手として活躍し、67年に近鉄へ移籍。70年に阪神へ復帰。72年に現役を引退した。通算成績は1482試合出場、打率・234、1041安打、24本塁打、264打点。引退後は、近鉄の総合アドバイザー(93―94年)や野球解説者として活躍し、神戸大海事科学部監督も務めた。現役時のサイズは177センチ。右投げ右打ち。2019年8月1日死去(享年80)。