【No Ball、No Life】30年前の1993年5月15日。「横浜M-V川崎」の試合が国立競技場で行われた。日本初のプロサッカーリーグが誕生し、その記念すべき開幕戦。約6万人の大観衆が熱狂した。
当時、私は27歳。まだ記者ではなく、前職の勤務地、千葉県内に在住し、開幕戦はテレビ観戦した。場所柄、ジェフユナイテッド市原(現J2千葉)のファンが多く、私自身も何度か市原のスタジアムに足を運んだ記憶がある。中でも衝撃だったのが、〝リティ〟ことMFピエール・リトバルスキー(当時33歳)が入団したことだった。W杯出場経験のある元ドイツ代表の来日に、友人が「リティが本当に市原に来るらしいぜ、すごいことだな」と興奮したのを今でも覚えている。
期待通りの活躍を見せたリティは初年度、35試合に出場し9得点。開幕2戦目のV川崎(現J2東京V)戦で直接FKを決めるなど、技術の高さを見せつけた。第1ステージは、そのV川崎戦から4連勝するなど好調なスタートを切り同ステージは5位。だが第2ステージは失速し、年間8位で終わった。
オリジナル10の1つでもある市原。創成期には元日本代表DFの中西永輔氏、同GK下川健一氏やサッカー解説者でおなじみの宮沢ミシェル氏ら、豪華な顔ぶれがそろっていた。その後も日本代表選手を数多く輩出。イビチャ・オシム監督を招へいすると2005、2006年とナビスコ杯(現ルヴァン杯)を連覇するなど強豪クラブに成長した。それだけに2010年にJ2降格以降、J1復帰を果たせない現状が悲しい。
私が学生時代、日本のプロスポーツと言えば、ほぼプロ野球のみ。サッカーのプロが誕生することなど想像もできなかった。30数年前、その機運が高まってきても「本当かよ、大丈夫か」という声が大きかった。先日、Jリーグ初代チェアマン、川淵三郎氏を取材した。サッカーのプロ化を推進した〝主役〟は、こう断言した。
「ぼくも最初はプロ化は無理だと思っていたけどね。ただ(プロ化の話が進んできて)成功すると信じていたし、失敗したら自分がやめればいいと思った。覚悟だよ、覚悟。プロ化にはいくつもの高いハードルがあって、それを飛び越えようとね。それが、いつしかサッカー関係者の合言葉になった」
信念と覚悟。それがJリーグ成功の原動力になった。10クラブから始まり、現在は60クラブまで急増。当時、川淵氏は「各都道府県に2つはJリーグのクラブがほしい。そして日本全国に100クラブ」と豪語していたというが、それも現実味を帯びてきた。同時に日本サッカーの実力も格段に上がってきたことも事実だ。今後の30年にも期待したい。(宇賀神隆)