大相撲夏場所も終盤に入り、優勝争いの佳境を迎えた。新型コロナウイルスの5類移行に伴い、関取らが入退場する東京・墨田区の両国国技館の南門には入り待ち、出待ちのファンが幾重にも重なって、日増しに掛け声も大きくなってくる。
両国駅に近い南門周辺から北門へ向かう200メートルほどのフェンスには、いつものように関取のしこ名や部屋の名前を染めた相撲幟(のぼり)が立ち並ぶ。空の青、隅田川から吹く薫風、ゆったり流れる昼下がりの時間に、幟が揺れる光景は清涼感にあふれている。
長くこの様子を味わってきたが、今回、ここで自らの無知に気づかされた。幟を立てる位置は、てっきり約束ごとで決まっているものと思い込んでいたが、関係者によると「決まりはなく、基本的に無作為で立てている。九州場所のように、番付順に並べるところもある」。
国技館の場合、本場所初日の1週間前に立つ幟は定位置や番付順などには関係なく、担当者の恣意(しい)に任されていることを初めて知った。
国技館の幟の布は「天竺」と呼ばれる木綿で縦5メートル40、幅90センチ。間近でみると大きくみえる。後援会やひいき筋から贈られるもので、江戸時代から興行場所の入り口や周辺に立てられた。明治34年5月の新聞記事によると、相撲会場だった両国回向院境内には700余もの幟がはためき、常陸山200余、大砲100余など数字も記され「未曾有の数」と表現。その景色は「両国や 幟の林に 樽(たる)の山」と句に詠まれるほど壮観だったという。
ところが、明治42年6月、旧両国国技館開館を機会に地方場所や巡業を除き、東京場所ではこの幟が廃止されてしまう。日本相撲協会に残る記録を総合すると「西洋文化に狂奔する時代に飲み込まれ、近代的な建物、興行形態にはふさわしくないとされ、相撲幟は古き遺物」と判断されたようだ。
それでも、放逐された相撲幟は敗戦から7年を経た昭和27年春場所(1月)、東京・蔵前国技館で再び立つことになり、江戸の空を彩った相撲幟は40年余ぶりに復活した。
さきに開かれた先進7カ国首脳会議(G7広島サミット)には、ウクライナのゼレンスキー大統領(45)が電撃来日。会合に参加した。同大統領の来日はロシアが昨年2月にウクライナに侵攻した以降では初めてのアジア訪問となり、支援を要請。「ウクライナ問題」「核軍縮」「経済安全保障」など各分野で個別声明が出された。
相撲幟の復活に際しては、戦後ようやく落ち着いた「平和」と「情緒」を忘れなかった余裕が、相撲ファンの澎湃(ほうはい)となったと聞く。G7をみながら、喫緊の現実と断じることができない将来を考えさせられた。「勇ましき 皐月(さつき)の空に 幟竿」。決めごとは状況や環境でひっくり返る。だからいま、〝古き遺物〟で楽しめる。