長崎幸太郎氏(54)は今や誰もが知る山梨県知事である。彼も患者の一人とあって、今年1月の知事選では、私は選挙戦最終日の1月21日夕、その姿を見届けに、特急「あずさ」で甲府市に向かった。選挙事務所には多くの支援者らが集まっていた。最後の街頭演説を終えた長崎氏が赤いジャンパーに白いたすきをかけて、支持者や運動員らに頭を下げに戻ってきた。開票の結果は対立候補者にダブルスコアで再選だった。
長崎氏は東京生まれで、両親は荒川区で布地の卸売業を営んでいた。開成高、東大法学部を卒業し1991年に大蔵省(現財務省)に入省した。ただ、長崎氏は「高校の頃から政治家を希望していた」といい、母親が山梨県市川三郷町の出身だった関係もあり、2005年、衆院選に山梨2区に自民党から出馬。比例区で復活し初当選し、それから衆院議員を3期務めた。
しかしこの間、当選、落選、当選、当選、落選と苦労の山積であった。19年に山梨県知事選に転身して初当選。当選直後に危篤の父の枕元に向かい父の死を見届けたことは当時、報道された。
長崎氏は「浪人中は妻に生活から何からすべて助けられた」と智香子夫人(51)への感謝の言葉を忘れない。夫人は選挙戦では自らマイクを握り、長崎氏が落選後の17年7月には応援ツイッターを開設。「製薬企業で研究するリケジョ(理系女子)です」と発信している。
そんな支えもあって知事を務める長崎氏の存在は山梨の財産であろう。中部横断自動車道にかかる県負担額を164億円から1億円へと驚異的な削減をやってのけ、観光の目玉としてのワイン県宣言、あるいは「やまなしグリーン・ゾーン認証マーク」制定や、日本医師会の釜萢敏・常任理事を感染症対策の県の指導者に登用するなどコロナウイルス関連の優れた諸政策をいち早く打ち出し評価された。