全米水上選手権1500メートル自由形で優勝した古橋広之進(左)と2位の橋爪四郎。活躍が日本人の国際的評価を高めた=昭和24年8月、米ロサンゼルス 野球のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)に、日本国民がこぞって歓声を送っている。「たっちゃん」ラーズ・ヌートバーの躍動も素晴らしいが、やはり人々が最も注目するのは大谷翔平か。同胞や地元選手の活躍は人を元気にする。スポーツの力だ。
社会状況が厳しい時ほど、スポーツの力はより大きく感じられる。近年なら2011年、東日本大震災後のサッカー女子「なでしこジャパン」のW杯優勝や、プロ野球・東北楽天の日本一(13年)が思い出される。
そのように人々を元気づけたスポーツ選手は多いが、ひときわ輝いているのが、戦後に競泳で世界記録を何度も上回った古橋広之進と、ともに戦った橋爪四郎だと思う。
日本が多くの犠牲者を出して敗戦し、主要都市ががれきに帰した時期。どん底にたたき込まれた国民の希望の光となり、高度成長の原動力になったのだから、スポーツの枠を超えた偉業だ。はるか後に生まれた私でも、一連の物語に触れるたびに胸が熱くなる。
1948年、敗戦国の日本はロンドン五輪出場を認められなかったが、時期を合わせた全日本選手権で古橋、橋爪が当時の世界記録を大幅に上回った。その記録はロンドン五輪の優勝タイムより30秒以上速かった。翌年、招待を受けて全米選手権に出場した2人は、世界新記録を連発して世界の度肝を抜いた。
全日本選手権は満員札止めで、一目見ようとする人が会場外の街路樹に鈴なりになった。日程を避けようと、プロ野球が日本水連に開催日を問い合わせていた。戦犯としてフィリピンの収容所にとらわれ、米国の新聞を通して活躍を知った元陸軍大尉は「友人が処刑され、自分らもどうなるか分からない絶望の淵にいて、明るいニュースが自分たちの帰国につながると思いたかった」-。
これらは約30年前、私が2人の活躍を記事にした際、まだご存命だった関係者たちから聞いた話だ。社会に与えた影響の大きさがうかがえる。
古橋、橋爪と同じ日大水泳部で、日頃から部員のカロリー計算をしていた人は「『古橋君、そろそろ栄養失調で死ぬ頃だぞ』といっていた。いくら計算し直しても間違っていなかった」と振り返った。食糧不足の時代、自分たちで育てたカボチャやナスのほか、プールで泳いでいたガマガエルを捕まえて足しにしてもいたという。
中学卒業後、工場に勤務していた橋爪さんは、同い年の古橋さんに泳ぎを見いだされて日大へ。「古橋とは相撲でいえば三役と序ノ口ほどの差。その古橋が泳ぎだしたら止まらない。先輩が練習を終わらないのに、やめるわけにいかず、『エラいところへ入ってしまった』と思った」と話していた。
日々を懸命に生き、懸命に競技に向き合った結果、成し遂げられた偉業だった。
日本オリンピック委員会(JOC)会長や国際水連副会長を歴任した古橋さんは2009年、世界選手権開催中のローマで死去。生前、取材対象として親しく話をさせていただけた橋爪さんにも、先の記事執筆の際にじっくりインタビューさせていただいた。お二人から話を聞けたのは記者人生で記憶に残る財産だと思っている。
橋爪さんは今月9日、94歳で亡くなった。お二人以降、大谷たちのように、いろんな競技で国民を勇気づけるアスリートが輩出され続けていることを喜びつつ、先人の偉業をしのびたい。合掌。
(只木信昭)
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