日本シリーズ巨人対阪急第4戦、四回に重盗を仕掛けて本塁に突入する巨人・土井正三(左)。右は阪急・岡村浩二捕手=後楽園球場【撮影日:1969年10月30日】 阪急(現オリックス)黄金時代の名捕手で、1月29日に肺がんのため82歳で死去した岡村浩二さんは、5歳年上の野村克也さん(2019年2月11日死去、享年84)が、同じ捕手として高く評価したライバルだった。
野村さんは、パ・リーグの捕手部門のベストナインを、1956年から68年まで、13年連続で独占した。その連続受賞をストップしたのが岡村さんだった。
岡村さんはこの年、121試合に出場して阪急のリーグ3連覇に正捕手として貢献した。野村さんは故障もあり106試合の出場にとどまり、連続シーズン本塁打王が8年で止まった。岡村さんの選出は順当といえるものだが、野村さんはその後、70~73、75、76年にもベストナインに輝いていた。それだけに、岡村さんの受賞は偉業と受け止められた。
岡村さんは、この年の日本シリーズ第4戦で日本シリーズ史上初の退場者となった。そのシーンを振り返ってみる。
〝3点リードの四回の守り。一死一、三塁で長嶋茂雄が空振り三振したと同時に、一走・王貞治がスタート。捕手・岡村は二塁へ送球すると、三走・土井正三が本塁突入。二塁手がカットして岡村に返球。鉄壁のブロックを誇る岡村が、土井をはね返したと思われた。ところが、岡田功球審の判定は、「セーフ」。激高した岡村が球審を突いて退場になった。〟
南海時代の野村さんは、ラジオの中継席でこの場面を見ていた。後にこう振り返った。
「私にはアウトとしか思えなかった。当時、岡村はブロックの名人で、『重戦車』と呼ばれていたからね。だが、土井は岡村のブロックを研究していた。左足を目いっぱい伸ばし、はね返される直前、わずかな隙間からベースに届かせた。翌日の新聞に、土井の左足がベースに届いている写真が掲載されて納得した」
野村さんは、「あの一件だけで岡村の捕手としての評価は下がらないよ。素晴らしい捕手だったよ」とも言った。頑健で肩が強く、根拠のあるリードをする。「捕手らしい捕手だった。打席に立って、知恵比べをするのが楽しかった」と。
「ノムさんにはフォークのサインは出せません。わかっているんでしょう? それでもピッチャーは不器用だから、直せないんですよねえ…」
阪急戦で野村さんが打席に入ると、マスクをかぶっていた岡村さんがよくボヤいてきたという。現役時代の野村さんは、フォークボールを決め球にする投手の癖を盗むのが得意だった。投手がフォークボールの握りをするとき、人さし指と中指を広げるため、グラブも一緒になって膨らむ。打者に見破られまいとすると、今度は手をグラブに収める前に一瞬、間が空く。癖が出ないように意識すればするほど、変化が表れたのだという(現在ではフォークの握りで指を広げておき、直前に握り変える投手が多い)。
サンケイスポーツの企画でタレントのダンカンと思い出話に花を咲かせた岡村浩二さん(右)野村さんが晩年まで会心の笑みを浮かべていたのは、岡村さんを〝だました〟本塁打だった。同点の終盤。打てば決勝打という場面で、野村さんが打席に立った。
「案の定、スリーボール。このまま歩くのもしゃくだから、岡村を相手にちょっと芝居をしてみよう、と考えた。打席を外して、ベンチからのサインを確認した後でわざと舌打ちした。不満そうな顔をしてブンブンと大きく素振りをしたんだ」
次の一球、様子を見にきた唯一のストライクを狙って、本塁打。「岡村なら『待てのサインが出たな。それで野村は不満なのだな』と思ってくれるんじゃないかとね。自慢話に聞こえるかもしれないがな、岡村が確かな観察眼を持っていたから、それを利用できたんだよ」。ノムさんは楽しげに当時の知恵比べを振り返っていたものだ。
2016年、サンケイスポーツの企画で、ダンカン氏が岡村さんが経営するスナック「29」(ツーナイン、阪急時代の背番号にちなむ)を訪ねた。ダンカン氏が生まれ変わっても野球を?と問うと「おう、やるわ。ただし、野村さんのいない時代に生まれたい」と話していた。
そんな岡村さんは、71年に生まれた次男に「克也」と名付けた。
「岡村から『名前をもらっていいですか?』と連絡をもらった時にはびっくりしたよ。俺なんかと同じでいいのか?って」
ノムさんは生前、誇らしげに笑っていた。リスペクトにあふれた、素敵なライバル関係があった。
(加藤俊一郎)
この記事をシェアする