でも、振り返れば私のスポーツ記者として、その後の財産もカドさんにはたくさんいただいた。ひとつあげれば「見る」という取材の原点だった。
カドさんは背中に〝目〟があった。左打者だから南海の本拠地、大阪球場の一塁側ベンチにいる記者の私が見ても、打撃練習中のカドさんにはわからないはず。でも、来る日も来る日も、背中のしわになって、よじれた背番号「60」番を見続けた。いつの頃からか、背中のユニホームのシワの寄り具合で、なんか調子がわかってきたような気がした。
それでも相変わらず、カドさんは無言のままなのだが、ある日、打撃練習から引き揚げる際、私の横を通り際、ポツンと「どや」とつぶやいた。
なんて返事したかまでは覚えていない。でも、カドさんは見えるはずのない、私の視線を感じ、わかってくれていたのが、とてもうれしかった。
もう20年以上前。父が他界した。通夜の夜、もう誰も来ない夜10時過ぎ。私が一人で棺の番をしているとカドさんが突然、一人訪れた。ビックリした。カドさんは両手を合わせながら小さくつぶやいた。そばにいた私がようやく聞き取れるほどだった。
「先生のあの言葉のおかげでホームラン王になれました。ありがとうございました」
その言葉だけつぶやき、後は無言で去っていった。
果たして私はカドさんにどんな手向けの言葉を贈ればいいのか。訃報に触れたばかりで言葉が浮かんでこない。でも、「ありがとうございました」とだけは言える。
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