南海、オリックス、ダイエーでプロ野球歴代3位となる通算567本塁打を放った門田博光(かどた・ひろみつ)氏が亡くなった。74歳だった。大阪サンケイスポーツでは2010年オフの企画「プロ野球三国志 時代を生きた男たち」の初回で当時62歳の門田さんを取り上げ、同11月から11回にわたって連載した。壮絶な野球人生を送った故人を悼み、同連載を再録する。第4回―。
門田は最高の手本がすぐそばにいるのに気付かなかった。毎日のように、その人と会話していたのに…。
「プロに入って2年目やった。凡退して、手が真っ黒になっていたので、大阪球場のベンチにある洗面所で手を洗っていたんや。何気なく目の前の鏡を見たら、そこに自分が探し求めていた理想のフォームの左打者が写っていた。おかしいな、俺の次は右打者のはずなのに、何で左で…。一瞬、不思議に思ったぐらい。そうか、鏡やから反対に写るんや、と気付いた」
あまりにも有名な話だが、門田を語る上で避けて通れないエピソードなので、記しておく。
この年、野村監督に抜てきされて3番に定着していた門田の次の打者は、監督でもある4番野村だ。鏡の中で見つけたその〝左打ちのノムさん〟はまさに理想的だったという。ショートの頭上を抜けるライナーといい、鏡に写ったフォームといい、何から何まで「野村克也」が手本だった。
それにしても、自分の理想を鏡の中に発見してしまうことが、この偉大なアーチストの異能さを際立たせる。
「そんな大層な話やない。ただ、人よりもアホな分、頭を回転させないと生き残れない時代やった。ノムさんの打撃を鏡で見ながら、これや、これや、と思ってね。ずーっと見続けた。塁に出るのも嬉しかったけれど、凡打しても、急いでベンチに戻って手を洗いながら観察するのが楽しくなった」
この逸話が残る1971年、門田は初めてのタイトルを獲得する。120打点で打点王に。長池徳二(阪急)、土井正博(近鉄)らそうそうたるスラッガーに競り勝っての栄冠だった。
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