1979年2月16日、右アキレス腱を痛め苦しそうな門田博光選手 =高知県幡多郡土佐大方町の大方球場
ギャラリーページで見る南海、オリックス、ダイエーでプロ野球歴代3位となる通算567本塁打を放った門田博光(かどた・ひろみつ)氏が亡くなった。74歳だった。大阪サンケイスポーツでは2010年オフの企画「プロ野球三国志 時代を生きた男たち」の初回で当時62歳の門田さんを取り上げ、同11月から11回にわたって連載した。壮絶な野球人生を送った故人を悼み、同連載を再録する。第1回―。
「不惑」という言葉が流行語になったのは、もう22年も前のこと。年号はまだ「昭和」だった。その年、40歳を迎えた男が44本塁打、125打点で2冠王に輝き、MVPまで獲得する。所属する南海は5位なのに。当時の常識を覆すスーパーマンの活躍は、世の中のオジサンを勇気づけ、人は「中年の星」と呼んだ。
「懐かしい顔や。あの頃は俺に意地悪されとったなあ。悪かった」
久しぶりに顔を合わせた門田は、こちらが戸惑うぐらいに優しかった。選手時代は、報道陣をそばに寄せ付けない、質問すら受け付けない、孤高の存在だった。
「あえて壁をつくってたけどね。何を言っても誤解されて書かれるから。でも、今はこうして振り返るのが楽しい。入団以来、いろんな節目、節目を思い出す。(節目と節目の)間の話はあんまり記憶に残ってないけれど(笑)」
そんな門田がまず話し出したのが、史上3位、567本塁打を放ったことでも、「不惑」という言葉を世に印象づけた88年の〝球史に残る節目〟でもなかった。遠くに視線をやりながら、ポツリ、ポツリと…。
「目の前が真っ暗になった、あの出来事だけは忘れることができないし、今もよーく覚えている。あの話を抜きには振り返れない。あれを乗り越えられなかったら、その後のプロ野球生活はなかったわけだから」
それは1979年春。門田がプロに入って10年目のシーズンを迎えたキャンプだった。高知・大方町(現黒潮町)のキャンプ地は、澄み切った青空が広がっていた。
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