大相撲夏場所で第36代木村庄之助を務める山崎敏広氏=2013年5月、東京・両国国技館 大相撲の元立行司、第36代木村庄之助の山崎敏広さんが11月の九州場所中に亡くなった。74歳だった。端麗な立ち居振る舞い、能書家で相撲字への造形が深く、番付表の書き手も長く務めた。故郷の鹿児島・JR枕崎駅舎の駅名の看板も揮毫(きごう)しており、機会があればぜひ、足を運んでいただきたいと思う。
平成23年九州場所で行司の最高位、木村庄之助を襲名。25年夏場所の定年まで49年間、一度も休場がなかったことでも知られる山崎さんから、初めて聞いた言葉がある。
「わたしはね、行司部屋入門なんですよ」
「ん…、行司部屋?」
昭和39年夏場所で初土俵を踏むが、入門時からの所属は「行司部屋」だった。33年1月、会長は22代木村庄之助(泉林八氏)、副会長は19代式守伊之助(高橋金太郎氏)として行司会を結成し、行司部屋として独立した。当初は旧両国国技館の茶屋の跡を改造。生活をするのに最小限必要な道具一式を借金をしてそろえ、幕下以下の約30人の行司が住み込みで居住を始めたという。
開設にあたって、行司が独立して「絶対中立」の立場で勝敗を裁き、行司の養成という大義名分はあった。一方で、昭和初期には幕内格行司の木村宗四郎が入間川取締役となり、戦後も21代庄之助が立田川理事、三役格行司木村今朝三も錦島理事となり、行司の存在感は示されていた。
ところが、34年1月には庄之助、伊之助両家を年寄名から除くことが決まるなどその立場は弱まり、〝復権〟への期待も色濃かったそうだ。
その後、行司部屋は蔵前国技館の敷地内の小屋へ移る。そして、15年を経た48年3月に行司部屋の解散が決まり、行司は各相撲部屋へ戻ることになった。結果的に行司には有力な後援組織、いわゆる「タニマチ」がつかず、皮肉にも諸費用を捻出できない現実を突きつけられたといわれている。
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